作家 高史明 追憶の風景 下関市彦島
山口県下関市の南端の彦島で生まれ、在日朝鮮人の多い集落の長屋で育ちました。両親は朝鮮半島の金海(韓国慶尚南道)の出身で、実母は私が3歳のころに亡くなりました。父は石炭の運搬や土木作業をしていましたが、極貧の生活でした。リンゴ箱に紙をはった米びつが空になると、私が升を持たされて米を借りに行かされました。父が電球のコードを巻いて首をつろうとしたこともありました。気がつくと、コードを留めていたくぎが吹っ飛び、父は尻餅をついていました。
小さいころから父の手伝いをしていた私は腕力だけはあり、何かあると真っ先に手が出る少年でした。小学4年のときには、在日朝鮮人の女の子をからかっている連中を一人残らず殴りました。在日朝鮮人の子が学校の下足箱からくつを盗むのを見て、暴力をふるったこともあります。自分のプライドが傷つけられたのかもしれません。
キムチが原因になったこともありました。冬は教室のダルマストーブに弁当箱を並べて温めていたのですが、うちのおかずはキムチしかない。そのにおいが教室中に広がって、くさい、くさいと騒ぎになった。自分もくさいと思ったのですが、気がついたら原因は自分だった……。自分が二重に壊れてしまった感じで、くさいと言っている連中を一人ずつ殴りつけました。
在日朝鮮人としての自分を明確に意識したのは5年生の時でした。私が小学校に入学する前夜、兄が「木下武夫」という日本人名を思いつき、私は学校ではその名前を使っていました。ところが担任になったS先生は最初の点呼で、金天三という私の本名を呼んだのです。「自分の名前を忘れていいと思っているのか」。在日朝鮮人ではないふりをしていた私をしかりました。初めて私と真剣に向き合い、生きる勇気をくれた先生でした。
国民学校高等科のとき、日本の敗戦を迎えました。戦争中、動員されていた工場から脱走したため、教師に殴られる日々が続いていましたが、敗戦の日を境に、殴っていた教師は私から逃げるようになりました。「この野郎」と思うことで精神のバランスが取れていたのに、自分の立っている場所が崩壊してしまった感覚でした。
学校を中退し、下関の街で、けんかを繰り返しました。日本人にせよ在日朝鮮人にせよ相手かまわず。あらゆる大人に反抗したい思いからだったでしょうか。捕まって岩国(山口県)の少年刑務所で10カ月を過ごしたあと、「心を入れ替えて勉強しろ」という父に朝鮮人学校に通わされました。でも、学校でたばこを堂々と吸うような私は長続きしません。暗闇の中、「もっと広い世界で自分を試したい」と上京したのは17歳のときでした。
東京では一時、政治活動にのめり込みましたが、挫折して行くところがなくなり、文学の道を志しました。一人息子へのメッセージのつもりで書いた『生きることの意味』で、日本児童文学者協会賞を受けたのが43歳。この年に、12歳だった息子は自死しました。以来、『歎異抄』を独学し、親鸞の教えと向き合って三十数年になります。
彦島は私が自我に目覚め、在日朝鮮人としての歩みを徐々に始めた土地です。つらい時代でしたが、今では笑い話になっていることも多いですね。
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「在日朝鮮人の私と親鸞とのかかわりを見つめてみよう」と、5年がかりで執筆してきた『月愛三昧(ざんまい)』(大月書店)が来春出版される。亡くなった息子との距離は「ますます近くなっている気がする」という。(谷啓之)
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高史明(こ・さみょん) 32年生まれ。71年に長編小説『夜がときの歩みを暗くするとき』を発表、作家生活に。93年に仏教伝道文化賞。神奈川県大磯町在住。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200910170229.html
どういう意図で記事にしたのか分からないのだが。
一体どの辺りに共感なり感動なりを覚えればいいんだろう