早い話が:天安門事件は良き時代=金子秀敏
6月4日。20年前、1989年のこの日に天安門事件が起きた。中国では日付から「六四(リュースー)」と呼ぶ。当時、北京支局で事件を体験した。いまでも断片的に記憶がよみがえる。
前日の3日の午後。広場にはきたないテントが林立していた。ビラを集めながら、広場中央の人民英雄記念碑に向かった。民主化運動の司令部があった。碑の周囲は、竹や角材を組んだ壁を組み合わせた複雑な迷路で、リーダーのいる指揮所には簡単に近づけない仕掛けになっていた。
迷路をうろうろして記念碑の石段を上がり、広場を見渡せる高台に出た。西に大きな人民大会堂のビル。その上空が真っ赤に焼け、紫色の雲が浮かんでいた。妙な静寂が漂っていた。後から知ったことだが、この時、指揮所では、学生リーダーたちが、徹底抗戦か撤退かで激しい論争をしていた。
少年が石段を駆け上ってきた。伝令の腕章をつけていた。大学の新入生だろう。顔立ちが幼く、はあはあ息を切らせていた。「ここは危険です。外国人は早く広場から出てください。あとは私たちがやります」。そう言うと、ほかの外国人記者を探しに走り去った。
北京の東西を走るメーンストリートが長安街、その東の外れの建国門に支局があった。深夜、原稿を書いていると、近くのアパートから知人が電話をしてきた。「おれの家の真下を戦車が走っているぞ! あーっ、自転車の男をひき殺しやがった」
時計の針が0時を回る。夜明け前、ゴーゴーという異様な音が響いてきた。アパートの上の階の踊り場から建国門陸橋を見下ろすと、長蛇のような戦車の列が長安街を天安門広場に向かって進んでいた。
戦車を見ながら、あの少年の無事を祈った。一党独裁体制への反逆行為なのに、学生たちは心の中で中国共産党を信頼していた。正義の要求は受け入れられると信じていた。それは少年の幼い顔つきでもわかった。
事件からずいぶんたって車で天津に行った。突然、中国人の運転手が車を止めた。二つ先の交差点を長い車列が横切っていた。護送車、2両連結のバス、その後に布団や洗面器を山積みした軍用トラック。車列は延々と続いた。「北京で監獄が足りなくなったんでしょう」と運転手が言った。
中国でまた天安門事件は起きるか。もう起きないだろう。あれは、中国人が共産党を信頼していた良き時代の事件だからである。(専門編集委員)
http://mainichi.jp/select/opinion/kaneko/news/20090604dde012070040000c.html
相変わらず、金子は馬鹿だ。
天安門事件、中国人民が共産党を信頼していた?ありえない。
あの時代、人民はお互いに密告し合い疑心暗鬼。
反政府思想を持つと疑われると、厳しい罰を受けたと言う。
数メートルの高さの台の上に立たされ、首からはバケツにコンクリート。
何時間もその状態で立たされた挙句、終わる寸前に後ろから蹴り飛ばされる。
頭から落下して、そのまま亡くなった人も多かった。
日本に血縁者が居ると言うだけで、この罰を受けることもあった。
稲を刈った後の田から落ちた僅かな米粒を拾って薄い薄ーいお粥を食べた話。
それすらなくて木の皮を食べた話。
そんな食事でも感謝の言葉を言って皆食べていたと当時を生きた中国人は言っていた。
そんな時代、学生たちは殺される事は分かっていたはずだ。
信頼していた?ありえない。