<外務省文書公開>零戦飛行士らのハワイ「地上戦」、克明に
太平洋戦争の緒戦、米ハワイ・オアフ島(真珠湾)攻撃の際に近くの島に不時着した日本人飛行士が、島民と交戦の末に死亡した。この米国での「地上戦」の記録が、22日付の外務省の文書公開で明らかにされた。在ホノルル総領事館の佐藤武五郎領事が関係者に聞き取り調査し、55年9月に金山政英総領事あてに詳細な報告書をまとめた。
西開地(にしかいち)重徳氏(当時22歳)が搭乗した「零戦」は真珠湾攻撃で被弾し、1941年12月7日正午ごろ(現地時間)オアフ島西約150キロのニイハウ島(約200平方キロメートル)に不時着。攻撃開始から4時間以上たっていたが、約200人の島民は開戦を知らなかった。
島民は西開地氏を救助し養蜂業者の日系2世、ハラダ・ヨシオ(原田義雄)氏(当時39歳)が通訳に呼ばれた。西開地氏は不時着で気を失った間に、軍艦の位置を示した海図とピストルを奪われたと語り、奪還を訴えた。やがて島民は開戦を知り、西開地氏をハラダ氏の自宅で監視下に置いた。
西開地氏は、海図などを取り返したいとハラダ氏に訴え続けた。ハラダ氏も決意にほだされ、2人は12日午後4時半ごろ脱走。猟銃を手に、海図を持ち去った島民に返還を迫った。だが交渉は決裂。海図の処分を急ぐ西開地氏が島民の住居に放火したため、激しい銃撃戦となった。報告書は「両人と全島民の間に激しい戦いが起き、多勢に無勢、ついに山中に逃げ込み」と記している。13日、2人は近くの山中で遺体で発見された。
ハラダ氏の妻ウメノ(梅乃)さん(当時33歳)が、2人をかくまった国家反逆罪で拘束された。33カ月後に釈放されたウメノさんはニイハウ島で洋裁店を営みながら3人の子供を育てた。佐藤領事にウメノさんは「何度も自殺を考えたが、子供が学校を卒業するまでは死んだ気で働く。日本に住む夫の両親、西開地氏の遺族に会いたい」と語った。報告書は「何らかの形をもってウメノさんを関係者と会わせる方法を講じてやるべきだ」と結ばれている。
この地上戦は「サンデー毎日」が80年に「二人だけの戦争」と題して記事化している。
<外交文書>日本漁船拿捕「補償はバナナで」 中華民国打診
1954年に中華民国が日本に対し、拿捕(だほ)した日本漁船の補償金をバナナで支払う打診をしていたことが、22日付で公開された外交文書で明らかになった。「バナナ補償」は実現しなかったものの、当時の日本でバナナは高級品。打診を受けた議論は文書では判明しなかったが、心が動いていた可能性もありそうだ。
日本政府は当時、台湾に逃れた中華民国政府を中国を代表する合法政府として承認していた。
第二次世界大戦後、日本の船は連合国軍総司令部(GHQ)の「マッカーサーライン」によって活動領域が制限されており、47年11月~49年8月に東シナ海で中華民国に2隻が撃沈され、30隻が拿捕された。その後、日本政府は漁船の水揚げに相当する額の補償を求めていた。
外交文書によると、こうした中、54年2月に中華民国側から一つの打診があった。
「32隻のうち2隻の返還が決まったとの話がある。補償額は1隻当たり15万台湾ドル相当のバナナ。市場で買い付けたバナナを日本に送り、売上金をもって補償とする」。在日大使館から入った連絡はこういう内容だった。
日本が求めた補償額が2隻で7600万円だったのに対し、当時の15万台湾ドルは360万円で、かなりの差があった。ただ、当時の日本でのバナナ1箱(45キロ)の市場価格は約2万5000円、輸入価格は約2700円。15万台湾ドルで購入できる60トンを売れば約3330万円となる計算だった。
外務省は、バナナ補償不発の後、何らかの決着が図られたとみているが、記録は残っていないという。
http://www.excite.co.jp/News/politics/20081222/20081222E10.043.html
こういうのを表に出しても外交問題化しない時代になったということかな