独島:「西暦512年から韓国が支配」

独島(日本名:竹島)は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里山1‐37番地という行政区域を割り当てられた大韓民国の領土だ。東経131度51分‐131度52分、北緯37度14分‐37度15分に位置する独島は、大きな二つの島と周辺の36の岩礁からなっており、面積は18万6121平方メートルだ。日本がどれほど独島領有権について無理な主張をしようとも、独島が歴史的かつ実効的に大韓民国の領土だということは、疑う余地のない事実だ。その根拠を追跡してみよう。
◆「鬱陵島の高い場所から于山島が見える」
独島が韓国固有の領土だという最初の記録は、新羅の将軍・異斯夫(イサブ)が「于山国」を服属させたという『三国史記』新羅本記の智証王13年(西暦512年)条に登場する。一部の日本の学者は、ここでいう「于山国」とは独島ではなく鬱陵島だけが該当する、と主張しているが、『世宗実録』地理志には、「于山と武陵の二つの島が、鬱陵県の正東の海中にある。2島は距離が離れておらず、天気が良ければ遠望することができる。新羅時代には于山国と呼ばれていた(于山武陵二島、在県正東海中、二島相距不遠、風日清明、則可望見、新羅時称于山国)」と記録されている。「武陵」は鬱陵島、「于山」は独島の昔の名称だ。
このような2島の記録は、『高麗史』地理志や『東国輿地勝覧』『成宗実録』『粛宗実録』といった多くの歴史的資料にある。最近発見された資料では、朝鮮後期の学者・朴世堂(パク・セダン)=1629‐1703=の『西渓雑録』が注目されている。この文書の中で朴世堂は、「于山島は地勢が低く、かなり天気が良くなければ、最も高い場所に上らなければ(鬱陵島から)見えない」と記録している。これは、「于山島」とは独島ではなく鬱陵島や鬱陵島に隣接する竹島・観音島のことだ、と唱える日本側の主張を覆すものだ。竹島や観音島は天気が悪かったり頂上に上らなくとも、十分に見ることができる島だ。
◆「日本領ではないため免許が必要」
日本は、1618年に米子の住民が鳥取藩主から鬱陵島への渡海免許を受けて以降、日本人が独島を停泊地とした17世紀半ばまでに「独島の領有権」を確立したという「固有領土論」を展開している。しかし、「渡海免許」とは外国に行って漁をする際に発給されるもので、むしろ、鬱陵島・独島を日本の領土とは認識していなかったことの証拠となる。1667年に編纂された『隠州視聴合記』は、日本側で独島を記録した最初の文献だが、この文書には鬱陵島・独島は高麗(朝鮮)の領土であり、日本の北西の境界は隠岐島までとする、と明記されている。
1696年(粛宗22年)、鬱陵島・独島付近に漁に出掛けた安竜福(アン・ヨンボク)は日本の漁船を発見、これを追い払い、さらに追跡して日本の伯耆地方の大名や対馬島主と談判、鬱陵島・独島が朝鮮の領土であるとの確認を得た。続く1699年には、日本の幕府の最高責任者である関白が対馬島主を通じ、このことを再確認する外交文書を送ってきた。こうした状況は19世紀末まで変わらなかった。1870年の日本側の報告書『朝鮮国交際始末内探書』には、「松島(独島)は竹島(鬱陵島)の属島」と書かれている。その当時の日本では、「竹島」とは独島ではなく鬱陵島を呼ぶ名称だった。
◆1900年、大韓帝国の皇帝が「独島=鬱陵郡所属」を宣言
開港後の1882年、朝鮮の政府は、鬱陵島に対するそれまでの空島政策(遠方の島に人が住んではならないとする政策)を廃止、開拓令を発布し、江原・慶尚・忠清道などから募集した人々を移住させた。鬱陵島の本格的な開拓以降、独島は鬱陵島の漁民らによって夏の間漁業基地として利用された。
この時「独島」という名前が付けられ、1904年に書かれた日本の軍艦の日誌や1906年の沈興沢(シン・フンテク)鬱陵郡守の報告書にこの名が登場している。鬱陵島の再開拓の後、それまでの「于山島」を「岩の島」を意味する「石島」と呼ぶようになったが、これを朝鮮語読みで「ドルソム」あるいは「ドクソム」とも呼び、ここから転じて「独島(ドクト)」になったというわけだ。特に鬱陵島移住民の多数を占めた湖南(全羅道)地方・南海岸の漁民らの方言では、石を意味する朝鮮語「ドル」が「ドク」となまる。
大韓帝国は1900年10月25日、「勅令第41号」を通じ「鬱陵郡の管轄区域は鬱陵全島と竹島(鬱陵島の東方約2キロにある島)・石島(独島)」と明示し、中央官報に収録した。日本側は、ここで出てきた「石島」は独島ではなく鬱陵島の北東にある観音島だと主張しているが、観音島は鬱陵島から100メートルも離れていない。事実上付属している島に対しわざわざ「管轄区域」を定めるというのは、理に適っていない。
◆日本、「独島は我が領土」と密かに主張
日本は日露戦争の最中の1905年1月28日、閣議で独島は無主地であるとの前提に立ち、独島を日本の領土に編入することを決定した。これは「以前から独島は日本固有の領土だった」という主張とはかみ合わない上、その後も独島編入を中央官報に掲載しなかった。1905年の島根県県報に人知れず公示され、関係国である大韓帝国への通報措置を取らなかったというのも疑わしい部分だ。
この「独島編入」自体が極めて不確実なために、日本政府は、韓国併合後も継続して「独島は朝鮮の領土」という認識を抱いていた。慶尚大のホ・ジョンファ名誉教授は最近、1939年に日本の東京学習社が出版した『小学国史絵図』を入手したが、この教科書は日露戦争を説明する地図で鬱陵島と独島を朝鮮と同じ色で表示しており、独島のことを「リャンクール島(竹島)」と表記している。同書は1928年の初版で、少なくとも11年の間、日本政府は児童・生徒らにこう教えていたことになる。
http://www.chosunonline.com/article/20080725000060
だから、その地図それ竹島じゃないだろ
とか、日本海って書いてないか?とか突込みどころが多すぎ