問われる本土日本人の想像力
自衛隊が市民団体や個人の動向を調査する「国民監視」を行っている実態を知って、この国の未来に不安を抱いた人は少なくないかもしれないが、沖縄をめぐって生起している状況は、それが杞憂ではないことを教えている。現時点では国民全体には直接のかかわりはない形で沖縄に標的をしぼった軍国化の地ならしが着々とすすめられているのである。
その一つは、第二次世界大戦末期の沖縄戦において日本軍の強制や命令によっておきた「集団自決」に関連して、日本軍の“名誉回復”を図る動きである。まず渡嘉敷島や座間味島の「集団自決」問題で駐屯日本軍指揮官は、住民に直接命令を下した事実はないと、当時の指揮官と遺族が大江健三郎と岩波書店を訴えている案件(大阪地裁で係争中)としてそれは表面化した。
ついで日本政府文科省が、来年度の高校日本史教科書から「集団自決」が日本軍の強制や命令でなされたという記述を削除するよう検定意見をつけて記述を修正させた事件である。この記述修正には沖縄全県の41市町村議会と県議会が歴史事実を正しく記すように「検定撤回要求」を決議して文科省に要請したが、伊吹文科相はこれを拒んでいる。
この二つは自由主義史観研究会と文科省が結託してなされた動きと見てよく、日本軍に対する厭悪(えんお)感を除き、軍隊の残虐性や非人道性を隠蔽しつつ「集団自決」を“殉国美談”につなげながら「愛国心」の称揚を図ることで、自衛隊の軍隊としての暴力性をカムフラージュする狙いが含まれていると考えられる。いずれにしても国民に自衛隊を“戦争のできる国”の軍隊として認知させるための意識形成を図る作業と言える。
その一方で、政府防衛省は、基地建設のための海域調査に抗議する市民を排除するために海上自衛隊の掃海母艦を出動させ、調査器具の設置に隊員を投入するという実力行使を行っている(5月18日、名護市辺野古沖)。
このように一方で国民の意識形成を図り、他方で実力行使を積み重ねつつ強大な軍隊はつくられるが、その軍隊が有事の際に自国民=地域住民を守らない存在であることは、沖縄戦で日本軍が具体的に示したところであった。壕からの追い出しや食糧強奪にはじまって、究極の形は「住民虐殺」としてあらわれたが、そのような軍隊の赤裸々な姿は、『沖縄県史』をはじめ沖縄の各市町村史の戦争編に数多くの証言によって記録されており、その典型的な事例は久米島における「虐殺」であった。45年8月15日の敗戦後も続けられた残忍な虐殺は言語に絶するものであるが、虐殺した日本軍の隊長以下全員はのちに米軍に投降して本土に引き揚げるという身勝手さである。
しかし、このような「住民虐殺」は、大本営が準備していた「本土決戦」がなされていたとすれば南九州と関東を中心に全国で発生したにちがいないのである。なぜなら軍隊は、国家を守る組繊であって個々の国民を守る任務は負っていないからである。そして軍隊としての自衛隊もその埒外(らちがい)にあるわけではない。
この国の首相は、「戦後レジーム(体制)からの脱却」による「美しい国」づくりを公言してはばからないが、その先に出現するであろう国が「恐ろしい国」であることは、いま沖縄で起きている諸々の事象から透視されるのである。
「戦争がどのようにやって来るのか、実に何でもない状態が進んでいって、ある日にば戦争が始まっている。たぶんね。足音もしないのね」(澤地久枝『世界』七月号、佐高信との対談)。
その通りだと思う。そしてかつて島尾敏雄が「日本の歴史の曲がり角では、必ずこの琉球弧の方が騒がしくなると言いますか、琉球弧の方からあるサインが太土の方に送られてくるのです」(『ヤポネシアと琉球弧』)と書いていたことを思い出すのである。 いまなお沖縄戦の記憶が生き、波が騒ぐ沖縄が発しているシグナルを感知して、音もなく忍び寄る「足音」を聴き取る「想像力」を本土の日本人は試されていると言えるように思う。(新川明=元沖縄タイムス社長)
中日新聞07.07.09夕刊
「想像力」で事実を捻じ曲げられても困るんだけどさ。