登録番号107 耳塚(京都市)
2007年03月02日
京都は観光の街である。毎年、数千万人にもおよぶ人が、おとずれる。海外からの入洛(にゅうらく)客も年々ふえてきた。
とはいえ、ひとつひとつの観光名所が、世界的に知られているわけではない。ニューヨークにそびえる自由の女神は、国際的な名声をほこっている。北京の天安門広場、カイロのピラミッド、パリの凱旋門も同様である。しかし、京都にそういう名所はない。ただ、日本の伝統的な文物があつまっている街だと、なんとなく思われているにとどまる。
東山区にある耳塚は、しかし例外的な史跡だと言えるだろう。ここの韓国における知名度は、けっしてあなどれない。じっさい、耳塚には、韓国の観光客がおおぜいやってくる。
戦国末期に天下を統一した豊臣秀吉は、周知のように朝鮮半島へ派兵した。大陸への侵攻をもくろんだのである。そして、秀吉軍の武人たちは、たおした朝鮮兵の耳や鼻をそぎおとして、もちかえった。首級(しゅきゅう)ではなく、はこびやすい耳などで、戦功のあかしをたてようとしたのである。
それらは、秀吉がいとなんだ方広寺の門前に、うめられたとされる。そこには、頂部へ五輪塔をおいた墳丘が造られ、供養されている。耳塚とよばれるようになったのは、そのためである。まあ、方広寺大仏の鋳型をうめた御影(みえ)塚がなまって耳(みみ)塚になったという説も、あるが。
韓国でその名がひろく知られているのも、秀吉のおかげである。朝鮮出兵にさいし、日本人はどれほどひどいことをしたか。それをわすれるな。韓国人旅行客の多くは、そんな想(おも)いもこめてここをおとずれる。うらみを確認するための史跡になっているのである。
江戸時代の朝鮮使節も、耳塚のことははやくから知っていた。「高麗人来朝のおりは、此塚を見て、かならず落涙すときこえぬ」。「洛陽名所集」(1658年)にも、そう書いてある。あんがい、海外でも知られるようになった史跡の、いちばん古い例かもしれない。
日本人としては、あまりほこらしげに語れる施設じゃあないというむきもあろうか。しかし、それでも韓国人を京都へひきつける、有力な観光資源になっている。観光政策的には、秀吉軍の蛮行に感謝したほうがいいのかという皮肉も、うかんでくる。負の歴史が商売の種になってしまう、観光というしくみのおそろしさを思い知る。
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/kansaiisan/OSK200703020029.html
朝鮮出兵とは、民衆が秀吉軍に味方し王宮に火を放ったあれですか?