「ことのは」問題を考える
これも長いので転載は略。
下で取り上げた佐々木俊尚氏の記事です。
以前ちょっと取り上げた事もある「ことのは」問題。
見知ったIDが踊っているのが物凄く気になるのですが。
なにかなーと思ってちょっと見にいったら、とうとう元オウムの人がへこたれて自殺を匂わせ、滝本弁護士や警察まで駆けつける騒ぎになった模様。
お前等やりすぎ!!
阿部知子の暴言の時の件も(当人ではない)秘書を叩いてどうするんだよと書きました。
私の基本はこれ。
オウムの犯罪は許されない。そんな事は当たり前。
でも、犯罪に関わっていない信者叩いてどうするんだよ。
幹部連中が凶悪犯罪を犯した。凶悪犯罪というよりテロだテロ。
それでも犯罪に関わっていない信者・元信者を叩く事には同意できない。
それを認めたら「親日派財産没収法」も認めなければならなくなってしまう。
だから、犯罪に荷担しなかった、そんな事実も知らなかった信者まで叩くのを許容するわけにはいかない。
日本は近代国家なのだ。
炎上意味なくね?の主張には、背景も考えるべきだという意見もあった。
でも、それとこれとは別問題じゃないかと。
オウム元信者を叩く人にも背景はあろう。
中には家族が、本人が被害者という人もいるかもしれない。
その人たちの気持ちを考えろ、或いは世間のオウムアレルギーを考慮しろと言われるかもしれない。
それでも言う。
犯罪に荷担していない信者に、オウム犯罪の責を求めるべきではない。
オウムや大日本帝国から被害を受けた側――つまり大日本帝国に侵略された中国や韓国と、オウムによって生命の危険を感じた日本国民の側の認識のありかたの問題だった。その「被害を受けた側」の認識としては、「歴史認識が問題だ」と言い続けている中韓の人々と、オウムの危険性をいまも声高に指摘し続けている日本社会は特定の場所においてオーバーラップするし、そのアナロジーには何らかの意味が存在すると思える。
日本と中韓、オウムと日本社会の間に横たわっているのは、決定的な認識のずれと、絶望的なまでのコミュニケーションの断絶だ。それは実のところ、日中韓やオウム-日本社会だけでなく、先に挙げた『断』のコラムで書いたように、いまや社会の至るところに偏在しているように思える。
中国はともかく韓国は侵略してませんが、といういつもの突っ込みは置いておいて。
「被害を受けた側」が被害者意識を克服できず半世紀以上前のしかも決着のついた話を蒸し返したり、当事者でない信者をネットリンチしつづけることを許容できない。
それは本来被害者側の抱えた心の問題だと思う。
だから、
オウムに対して日本社会の中には、呆然と恐怖心だけが残り、それが漠然とした社会正義へとつながっている。その社会正義はひどく漠然としているけれども、言論としてネット上に出現したとたんに、絶対的な正義として表出される。漠然から絶対正義へと至る変容がなぜ生まれるのかは私にはまだよくわかっていないのだけれども、90年代以降の社会が生み出した宙に浮いたような抽象的なオウムへの恐怖心が、ネット空間にも流れ込み、ある種の空気として漂っているということなのかもしれない。その暗い空気を言論化すると、それは絶対的な正義へと転換してしまうということなのかもしれない。そうであれば、オウム真理教と同種の恐怖が今後もさまざまに社会の中に生じていけば、同じことは次々と起きる。
そんなものは絶対正義でも何でもない。
ヒステリー。暴走。
それを許してしまったら、近代国家とは言えないだろう。
ところでつらつらーっと騒動の模様をヲチしてみたのですが、中心的に糾弾していた人たちは自分たちは絶対正義や社会正義を振り回しているのでは無いという。
…そうとは見えませんが。
見せませんが、本人達がそう主張するのでそういう事にしておきましょう。
で、あれをすべき、これをすべき、この疑惑を晴らすべき、べきべきべきべきと散々小突きまわした所為で本人潰れかけちゃってるんですが、一体何がしたいんだ。
で、やるべきと言っている中で一番大きな物が、オウム事件の手記なのですが、それが何になるのかなあ?いや、興味はありますけどね。手記を書いたところで絶対正義を振りかざして叩きに来る人間が居なくなるとは思えないのですが。
さらに色々読んでいたら、どうも元オウムの人に手記を書かせる事でオウム事件に向き合わせ、消化させるのが目的のような。
これまた余計なお世話だなあ。
それをやらせるために叩きまくって潰したのなら相当に馬鹿だぞ馬鹿。
というのはですね。
実は糾弾側の人で知っている人が居るのですが、その人別の場所で1年ぐらい前までトラウマとかドロドロしたものを書き散らすブログを書いていたんです。
どう見てもどんどん沈んでいっているようにしか見えなかったのですが、今思うと内面に向き合ってドロドロを消化したかったのでしょうね。
本人色々苦しんだのかもしれませんが、見ている限りでは自分で勝手な理由をつけて、納得しているようにしか見えませんでした。
でもって今やっている行動みても、一年ブログで吐き散らしてもやっぱり何も解決していなかった感じがするんですよねえ。
元オウムの人に手記を書かせた所で消化できるものなのか激しく疑問。
手記書いているときも、あれがダメだこれがダメだと口をだしていたようですが、自分も向き合えてないだろと問いたい。激しく問い詰めたい。
なんだか連帯して批判している連中、みな同じ穴の狢っぽいんですよねえ。
皆何某かトラウマに苦しんでいる。
それで絶対正義を盾にして、自分の中にも共通する欠点を相手の中に見つけて糾弾しているようにしか見えないわけです。
こんな風に感じるのは、元オウムの人にかけられた疑惑が私基準では、どれもたいした事無い話だったというのもあるかも知れない。