「ラストエンペラー」溥儀の自伝、完全版が刊行へ
2006年12月17日
映画「ラストエンペラー」で知られる中国清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の自伝「我的前半生(わが半生)」が、大幅に加筆した完全版として来年1月に出版されることになった。極東国際軍事裁判(東京裁判)での自らの偽証を明確に謝罪し、日本軍と満州国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省したことなど、これまでの1964年版では削除・修正されていた部分が盛り込まれ、自己批判色の強い内容となっている。
溥儀は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始。「わが半生」はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を削除・修正し、64年に出版された。すでに187万部近くに上り、日本語訳も出ている。今回出版されるのは、当時削除された16万字近い内容を加えるなどしたものだ。
東京裁判では、溥儀が日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」の執政に就任したことについて、日本人戦犯の弁護側が「自発的だったのではないか」と主張し、その証拠として溥儀が南次郎陸相(当時)にあてた「宣統帝親書」を示した。裁判に証人として出廷した溥儀はこれを「偽造だ」と否定した。
完全版では、うそをついたために日本の行為の徹底的な解明を妨げたと認めて「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と明確に謝罪している。64年版では「証言を思い出すと非常に遺憾」となっていた。
また45年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことについて「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。
64年版でも満州国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。
中国紙の報道によると、出版元である北京の群衆出版社は資料整理をしていた04年、64年版の削除・修正前の原稿を発見。「(削除や修正は)過去の様々な理由によるものだが、今、その内容は溥儀の真実の生活を理解し、歴史を認識するうえで研究価値が高い」と判断し、出版に踏み切ったとしている。
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〈愛新覚羅溥儀〉 1908年に2歳で清朝第12代の最後の皇帝「宣統帝」として即位したが、辛亥革命により12年に退位。31年の満州事変勃発(ぼっぱつ)を受け、32年に建国を宣言した「満州国」の執政に。34年には同国の皇帝になる。日本の敗戦とともに満州国は崩壊し、旧ソ連軍によって抑留された。46年には東京裁判に出廷。50年、中国の撫順戦犯管理所に移送され、59年に特赦で釈放された。67年、病没。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200612160326.html
どこがどう修正削除されたのか、照らし合わせながら読んでみたい。
中国での記事では、内容が変わっている事はあまり触れられていないなあ。
溥計《私の前半生》の完全版出版
本社ニュースによると(記者:昌偉)昨日、清に最後の1位の皇帝の愛新覚羅溥儀の文章を書く《私の前半生》(完全版)は大衆の出版社から出版した。言うところによれば、1964年の出版する《私の前半生》(定本)の1本の中で、その時のため社会環境は多い政治の原因と致すところで、原稿は16万字を削除された。今回の出版の《私の前半生》(通し狂言)は内容の全てを削除して原状に復して、溥計の改造の過程の中の情況、溥計の諧謔詩はおよび占う彖辞などの内容は初めて読者と顔を合わせる。
大衆の出版社の劉の鮮やかに輝く副社長によって紹介して、《私の前半生》は1964年の出版から、すでに22回印刷して、印刷部数の187万近くを累計する。2004年、大衆の出版社は《私の前半生》書類の材料を整理する時、意外に《私の前半生》の1、2の原稿を発見して、16万近く字の内容は原稿の中でその時のため社会環境と多い原因は公然と出版していない。これらの内容がすぐ読者に対して歴史を知って、溥計のを理解して如実に生活するすべて価値があることを考慮に入れて、この社は通し狂言を出すことを決定する。
紹介によると、溥計は1957年下半期から着手して《私の前半生》に文章を書くつもりで、1年の長い間間を使って、20万字の最初の原稿を完成した。初めはこの原稿は続々と出してガリ版で刷って冊、活字本、後関連している部門と専門家の意見を聴取した後でそれぞれ修理して1、2の原稿に変えて、最もついに1964年3月に正式に《私の前半生》(定本)を出版する。今度の出版の“通し狂言”の回復の主要な内容は1、2の原稿のもとのある前書き《中国人の誇り》、第6章《満州傀儡政権の14年》の第1節(つ)“の同時に上演する別の1台の劇を含む――と“通し狂言”の編集責任者の孟向栄によって語っている。1人の参与者の記述”を記録する、第7章《ソ連での5年》の第4節(つ)の“極東国際軍事法廷”、第10章《すべてすべて変わっている》の第4節(つ)の“離婚”。その他に、ある“定本”の中で簡略だあるいは削除し簡潔にするいくつかの叙述に、例えば日本の駐天津スパイの機関の“三野の邸宅”の描写、李鴻章に関して清末の1度の大きい水害の情況の上奏文、溥計の諧謔詩を記録しておよび占う彖辞、張宗昌の生活の略史、婉容の実の赤ん坊がボイラーに投げ込まれて焼く。これを除いて、まだ“定本”の引用句の少量の誤りを訂正した。
http://www.china.com.cn/book/txt/2006-12/11/content_7487836.htm