【社説】人文学の衰退は文章力の軽視が原因だ
国内の80大学の人文学部長が26日、危機に直面している人文学分野への支援を呼びかける声明書を発表するという。また、高麗大文学部の教授117人は先週、「人文学は存在理由すら揺らぐほどの深刻な岐路に立たされている」という「人文学宣言」を発表した。市場論理や実用性のみを追求する風潮に押され、韓国の人文学が存続の危機に陥っているという。
昨年政府が研究支援に拠出した予算7兆8000億ウォン(約9600億円)のうち、人文学分野にあてられたのは556億ウォン(約69億円)と全体の 0.71%にとどまった。人文学者が主張しているように、実用的な学問に偏った支援態勢を改め、人文学の領域もまんべんなく支援する改善策を直ちに実行すべきだ。
人文学の水準は、その国の精神性の高さを現す。政府は人文学に対する不適切な評価を至急に改めるべきだ。
しかしもう一つ忘れてはならないのは、人文学が危機に瀕している背景には、政府の政策上の問題だけでなく、おそらくは大衆とのコミュニケーションをおろそかにしてきた人文学者の閉鎖的な態度も関係しているということだ。
人文学者にとって大衆との相互作用は学術活動に活力を与えるものであり、またそれを得るためには大衆をより上の高みに案内するに足る優れた文章能力を備えていなければならない。その意味で、韓国における人文学の危機は外部からもたらされたものというより、内部の問題が影響している部分も大きい。
今年上半期の教保文庫(韓国の代表的な大型書店)のベストセラー50位の中に、人文学者が書いた本は一冊もなかった。一方、米国・ヨーロッパ・日本のベストセラーには常に歴史学者、文学評論家、哲学者、宗教学者ら本が含まれている。韓国でも米国エール大のジョナサン・スペンス教授が書いた『現代中国を探る(The Search for Modern China)』や、日本の中国史学者・宮崎市定の『雍正帝―中国の独裁君主』などは不動のロングセラーを記録している。
ノルウェーの哲学教師が書いた『ソフィーの世界』は思春期の少女を主人公にして、ギリシャ哲学から実存主義まで西洋哲学の3000年の流れを迫力感あふれる推理小説の形で書き上げ、韓国の若者たちに哲学の道案内としての役割を果たしている。このように人文学の貴重な成果は平凡な大衆からも強く支持される。
東洋の知的伝統では思想家・歴史家・哲学者とはすなわち名文章家を意味した。高麗・朝鮮時代の性理学者や中国の唐宋八大家は当代最高の知識人であるとともに、自国の言葉の美しさと精巧さを一段階引き上げた文章家でもあった。多くの石やもみ殻が混ざったご飯を炊いて置きながら、からだに良いから選り分けて食べろと言わんばかりの、不親切極まりない文章が横行している最近の状況とは大違いだ。近年、思想と文章を調和させる東洋の知的伝統が急激に衰退したことと、人文学が直面している危機には密接な関連があるのだ。
人文学の宝庫である東西の古典も、読むに値する翻訳書が見あたらない。韓国でプラトンの『国家』の完訳本が出たのはわずか9年前の話だ。セルバンテスの『ドンキホーテ』も昨年やっと完訳本が出た。一般読者が接する西洋古典の翻訳本ではいくら読んでも何を意味するのか把握できないものが多い。釈迦の言葉を当時の言語で記録したパーリー語の仏典が韓国語に訳され始めたのも、せいぜい10年前の話だ。同じ作業が、ヨーロッパや日本では数十年前に完了している。
最近、韓国の大学で文章教育が衰退したため、自分の考えをきちんとした文章にまとめられない人文学者も少なくない。人文学を復活させたいなら、大学の現場に文章を見直す機運を高めるべきだ。魚が水と慣れ親しむように、人文学者は言語の海で思う存分泳ぐ能力を身につけなければならない。
韓国の人文学者らが理念や論理の奴隷に成り下がったため、学問や読者の水準を高めてくれるような人文学の成果に理解可能な味わい深い文章で接することはますます難しくなってきている。人文学による災禍が続いているのだ。
人文学者たちには、大衆が好んで読む本は水準が低いという考えを捨てることから始めてほしい。やさしく、美しい文章で表現できなければ、それだけ学術的価値を発揮できる可能性も失われる。
喉が渇いた大衆が人文学のオアシスに駆けつければ、いつでもみずみずしいわき水を飲めるようであってほしい。そうした文章を十分に提供できるようになったとき、韓国の人文学もまた発展することができるのだ。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/21/20060921000014.html
>理念や論理の奴隷
分からない大衆が馬鹿なのか、理解される文章の書けない学者が馬鹿なのか。