[東京裁判60年]「戦争責任糾明は国民自身の手で」
日本の「現在」が、いまだに60年も前の「歴史」を巡って揺れている。1946年の5月3日に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)をどう評価するかという問題である。
東京裁判では米英ソを中心とする「連合国」が、いわゆるA級戦犯として28人を起訴し、公判中に死去した被告などを除く25人を有罪とした。このうち東条英機・元首相ら、絞首刑に処された7人を含む14人が靖国神社に合祀(ごうし)されている。その靖国神社への小泉首相の参拝が、内外に摩擦を生じている。
東京裁判には少なからぬ疑問もつきまとう。例えばA級戦犯の選定基準。中には、開廷直前にソ連の要求により被告に追加された重光葵・元外相もいた。重光氏は、戦後、外相に返り咲き、死去に際しては国連総会が黙祷(もくとう)を捧(ささ)げている。
日米開戦回避のため苦闘し、戦争末期には早期停戦に努めた東郷茂徳・元外相なども含まれていた。
東京裁判では、裁く側の“資格”にも問題があった。
判事席・検事席にいたソ連は、第2次大戦の初期、「侵略国」として国際連盟から除名された国である。しかも、日ソ中立条約を破って参戦、60万人の日本兵捕虜らをシベリアに拉致して、数万人を死亡させる理不尽な国際法違反の“現行犯”を継続中だった。
同じく「日本の侵略」を裁いた英仏蘭も、アジア「再侵略」の最中だった。オランダがインドネシア独立軍と停戦協定を結ぶのは、東京裁判判決の翌年、49年だ。フランスは、54年の軍事的大敗までベトナム再侵略を諦(あきら)めなかった。
「連合国」による“戦犯”選定基準、東京裁判の枠組みの妥当性をも、検証し直す必要があるのではないか。
とはいえ、あの無謀な戦争で300万人以上の国民を死に追いやり、他国にも甚大な被害を及ぼした指導者たちの責任は、極めて重い。だれに、どの程度の責任があったのか。
終戦直後には、日本自身の手で戦争責任を糾明しようとする動きもあった。東久邇内閣の戦犯裁判構想、幣原内閣の戦争調査会などだ。日本自身が裁いたとしても、東条元首相などは、まちがいなく“有罪”だっただろう。しかし、いずれも「連合国」によって妨げられた。
読売新聞は、現在、あの大戦にかかわる戦争責任の検証企画シリーズを続けている。読者の関心の高さは予想以上で、毎回、多数の電話、手紙、メールが寄せられている。
引き続き、密度の濃い検証作業を続けて、読者の期待に応えたい。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060501ig90.htm
まずは戦争責任とは何か?というところから始めようよ。