植民地下の押しつけの実態 研究
日本が植民地支配した朝鮮半島で、「国語」としての日本語はどのように教えられていたのか――。徳島大留学生センターの上田崇仁(たかひと)助教授(36)=日本語教育=は、1910年(明治43年)の日韓併合から45年(昭和20年)の敗戦まで、統治の手段の一つとしての日本語押しつけの実態を研究している。「この研究は時間がたてばたつほど難しくなる。歴史的な背景を詳しく知るため、資料収集を急ぎたい」と話している。
(上田学)
上田助教授は広島大学大学院博士課程時代に休学し、韓国・啓明大の日本学科で2年間、客員専任講師を務めた。同時に、植民地時代に学校で使われていた日本語教科書をコツコツと集め、98年に広島大に復学後、博士論文「植民地朝鮮における言語政策と『国語』普及に関する研究」をまとめた。02年9月に徳島大に着任してからは、植民地下の朝鮮半島でラジオ放送されていた日本語講座に焦点を当てて研究を進めている。
上田助教授によると、朝鮮半島でラジオ放送が始まったのは27年2月。「朝鮮放送協会」の名で植民地政策推進の一翼を担った。当初は日本語と朝鮮語の混交放送で、33年からは第一放送で日本語と第二放送で朝鮮語と、「2チャンネル」制となった。
現地のラジオ放送は、日本政府が朝鮮半島に日本の政策を普及させるのが目的。統制派が陸軍の主流になり、日本が戦争へとひた走ったころの36年11月には「国語講座」として日本語の放送が始まった。
しかし、ラジオの一般への普及率は37年から41年の間、日本本土で34%から66%に拡大したのに対し、朝鮮半島では1%から3%までにしか伸びず、裕福な家庭でしか聴かれていなかったのが現実のようだ。
当時の講座用テキストはほとんど現存していないが、上田助教授が数少ない資料を基に調べた結果では43年を境に、それまでのオーソドックスな内容から軍国色が強い内容に大幅に改訂されたという。
この年に作成されたテキスト「初等国語教本」は本文がカタカナで記され、「皇国臣民の誓詞(せいし)」から内容が始まる。最初の章を「ニッポン」と題し、「ヒノマルノハタハ ニッポンノコクキデス」「キミガヨハ ニッポンノコクカデス」などの例文が並ぶ。次の章は「テンノウヘイカ」で、「キクノゴモンガアリマス」「テンノウヘイカバンザイ」などとある。
さらに先の章には「ダイトウアセンサウ」として、「センシャハ リクグンノヘイキデス」「センスヰカンハ テキノグンカンヤフネヲウチシヅメマス」とあった。
この時期の戦況悪化と、現地での日本語教育の変遷との関係について、今後、詳しく調べるという上田助教授は、「戦後60年が過ぎ、当時の放送を知っている人は皆無に等しい状態になってしまった。日本が植民地時代、どのように日本語教育をしたのかはいまだ十分に解明されていない。散逸している資料収集をいまやらないといけない」と話している。
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000000602150003
たった3%しか普及していないラジオの日本語講座の、どこが押し付けなんだよ。