「いちばん大きな被害者は我々」
日本地震 難民村収容 僑胞の惨状
日本兵庫県南部地震発生3日目になる19日午前、神戸市長田区細田町にある1千平米規模の大宇化学工場。比較的大きなスポンジおよびウレタンソール製造工場であるここは、地震後火災によって跡形もなく行方知らずになってしまった。
僑民住居地域 木造多く廃墟に
在日僑胞申永淑社長(81歳)は、『地震直後自転車に乗って工場へ駆けつけてみると、隣の建物から火の手が上がっていた』といいながら、無念さに言葉をつなぐことができなかった。彼女は『30年の間私と家族を食べさせてくれた工場に感謝の気持ちで祈りながら、燃える工場を見守るしかなかった』と話した。僑胞たちが30~1百平米ずつ仲立ちして運営してきた下請け工場13箇所の姿も、一緒に消え去ってしまった。
申さん夫婦は余震の恐ろしさでアパートを空けたまま、近隣の県立体育館ロビーへ避難、おにぎりとラーメンで食事を間に合わせ、孫たちとともに過ごしている。
近隣の長田区菅原通り。在日僑胞が運営する4階建ての平和ゴム工場は、機械が完全に破壊されたまま、建物の鉄骨が天へ向かって突き上がっている。ここを仲介している16の会社の主人たちはどこへ行ったのか、分からなかった。工場の裏側では黒い煙がずっと吐き出されていて、煙たい臭いが伝わった。ケミカルカップ工場を運営する朴柱泳さん(50歳)は、『命だけでも助かったことを幸いに思っている』と話した。
隣の“助けてくれ” 悲鳴を聞いて手を貸せず
朝鮮総連の建物 崩壊 北の写真 あちこちに散らかる
市立神楽小学校の講堂へ避難している金玉仙さん(61歳)は、『17日明け方、轟音に驚いて目が覚めたら天井が崩れ落ちていて、毛布で体をくるんでなんとか抜け出てきた』と当時の状況を伝えた。金さんは隣の家の李某さん(日本名・宮下)夫婦が家の瓦礫に遮られ『助けてくれ』と叫んでいたが、救助することができなかった。近隣に住む娘夫婦が探しに来て、いっしょに逃げる拍子に気を失ってしまったためだ。避難所で李さんの孫たちから『おじいさんとおばあさんが二人とも亡くなった』という話を聞き、身を震わせた。
体育館に避難していたある僑胞は『経験してみて、在日僑胞たちが今度の地震のいちばん大きな被害者』だと言った。
家を失った僑胞たちは19日、避難所で民団側が提供した食料品と毛布、コンロなどを受け取って涙ぐんでもいた。自分を安氏であると明らかにした70代の老婆は、『大阪に住んでいる孫が昨日の晩12時間かけて私に会いにきて、一晩いっしょにすごして少しは安心した』と言いながら韓国から来た記者の手を握り、離そうとしなかった。
僑胞勤労者たちが多く住む川西通り3丁目。月の家賃1万円の木造住宅が密集している所だ。今は通りを区別することができないくらいに廃墟となった。2階建て木造の建物である朝鮮総連イケ(※漢字不明)本部も根こそぎ崩れ落ちてしまい、内部にかかっていた写真などが散らかった状態だった。この界隈の韓国系住人が主に通う在日大韓キリスト教神戸教会(牧師・申鍾國)にも15名の僑胞が避難していたが、残りの僑胞たちのうち誰が犠牲になったのかも分からないでいた。
写真キャプション
罹災民避難所 今度の日本大地震で家を失った神戸市民たちが19日、生田高校講堂で救護品を待っている。
(訳:いっぷに)
韓国の新聞、阪神大震災第一報で「天罰だ!」 の見出し!?
阪神大震災は「とても気分のいいニュース」
と、エントリーしてきた阪神大震災時の韓国新聞の報道です。
3.4日経つと、日本の報道の丸写しではなく自分達で取材したらしき記事になってきます。
話題は勿論「在日」。
気にかけるのはウリのことばかり。
>『経験してみて、在日僑胞たちが今度の地震のいちばん大きな被害者』だと言った。
誰もが同じように被害を受け同じように救助されたのに、いちいち腹立つ民族だなあ。