■「劣等的優越感」
「解放から今までの韓国社会の集団的心理を観察してみると、韓国は劣等感と優越感の二つの感情が交差しながら支配してきた。」
米ジョージメイソン大の盧ヨンチャン教授(比較宗教学)は14日付の文化日報コラム「劣等的優越感と韓国のAPEC会議」で、韓国現代史を劣等感と優越感という視点から説明した。盧教授によれば、1950年代から80年代まで韓国社会は主に劣等意識が支配してきた。経済的貧困と政治的独裁状況が、我が国の国民の劣等感を煽ってきたという説明だ。
しかし2000年代に入って、韓国人は正反対の感情に覆われるようになる。かつてと違って、振り子が優越感の方へ急激に傾いた。その転換点はもちろん2002年ワールドカップでの4強進出だ。ワールドカップ4強進出が、自信感を爆発させられる契機を提供したという訳だ。盧教授は、こうした国民感情を最も効果的に政治化した主体こそ盧武鉉政権だと指摘した。
盧教授の分析は興味深いが、最近、まったく同じ方法で日本社会を分析した記事がニューヨークタイムズに掲載された。同紙が素材にしたのは、日本で最近ベストセラーになっている『マンガ嫌韓流』という本だった。ニューヨークタイムズによれば、このマンガは普段劣等だと思ってきた韓国大衆文化の日本社会への氾濫がもたらした当惑の現われだ。中国人・韓国人と違って日本人は出来るだけ目を大きく描いたり金髪に描いたりしているのも、西洋に対する劣等感だということだ。
果たしてそうなのかどうかは、もう少しよく見てみる必要がある問題だが、ここで興味深いのは、この記事に対する日本ネチズンの反応だ。記事に対する不快感は当然だが、叩くにしても記事を非難しようとする理由があまりにも呆れたものだからだ。ネチズンの相当数が、記事を書いた特派員が日本人だとして、「アメリカ人記者の書いた記事ではないから大した意味が無い」と言っているのだ。
つまり、日本人の書いた分析記事は論評する価値がなくて、まともに論評するに値するのは西洋人記者が書いたものでなければならないという論理だ。自分ではそうではないと主張するかもしれないが、これこそ潜在意識の中に隠れている劣等意識を現わすざまではないか。『嫌韓流』の背後に隠された意識構造を自ら暴露したようなものだ。
韓国と日本、両国は多くの面で似ている。
http://www.munhwa.com/opinion/200511/26/20051126010122371150020.html
話題の大西記者
×「アメリカ人記者の書いた記事ではないから大した意味が無い」
○「大西記者の書いた記事だから大した意味が無い」
『嫌韓流』が発売されてから随分経つのに未だに拘っている理由の方を分析してみたらどうかと。