景福宮をレポートするのを忘れていました。
ので、一月以上も経って再度韓国レポートをする事にします。
閔妃暗殺現場とされる景福宮。
閔妃暗殺の実行犯が朝鮮人なのか日本人なのかは分っていないのですが、ネットでも書籍でも日本人だと断定していたりしますね。
根拠はなんだろう?
まあ、どういうわけか分かりませんが、李泰鎭センセイも日本人が犯人だ!と断定してらっしゃいますから、それに則して景福宮をレポートしたいと思います。
景福宮の全体図
http://www.muse.or.jp/korea/keifuku/keifuku_map.html
>景福宮内部の細密な平面図に表示された侵入経路によれば、日本人たちは景福宮の正門である
光化門から侵入、
慶会樓の左側から北上、
乾清宮へと入って行った。
光化門は地図の左下
慶会樓は地図中ほどの池の中
乾清宮は、この地図ではちょうど右上の土塀煙突のカメラの赤い線の下になっています。池の上辺りの建物がそうです。
要するに一番奥にあるんですね。
景福宮の広さはこちらの地図で分るでしょうか。
…日本大使館、小さい^^
景福宮全体は…はい、かなりの広さがあります。
無駄に広いです。ほんとに。
それを、正面正門から入って絶景ポイントの慶会樓を北上、最奥にある乾清宮に進入したと。
マジで?
景福宮が作られたのは1395年。
李朝の太祖、李成桂によって韓国全域のお寺の僧侶と1万5千余りの国民を動員し、10ヶ月かけて作られました。
…搾取しまくってるな。
1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵時、混乱に乗じて宮殿に乗り込んだ群衆(もちろん朝鮮人w)によって焼かれ廃墟に。(他のサイトでは朝鮮出兵で焼失したとしか書いてないのが殆どです。それでは日本が景福宮を廃墟にしたと勘違いしてしまう。)
1867年、大院君により再建。1868年に完成。
日本では明治維新で国をひっくり返す大騒ぎをして必死に近代化を行っていた時。
欧米列強がアジアに押し寄せていた国家の危機という時に、です。
この広大な宮殿を再建するために、膨大な量の材木を切り倒し(しかも集めた材木は一度火事で焼失)、墓陵(!)から石材を集め、重税を課して国民を搾取しまくりました。
李朝の連中、こんなのばっか。
その辺りの経緯は
来寇をよそに、景福宮の再建に国富を注ぎ込んだ大院君 日韓併合の真実 崔基鎬 著
を参考に
景福宮そのものが朝鮮伝統「搾取」の象徴じゃないか。
で、実際どれだけ広いのかの実感は無いと思いますので、李泰鎭の主張するルートに沿ってレポートしてみます。
光化門
朝鮮戦争で焼けたものをコンクリートで再建。
李泰鎭によると、閔妃暗殺の実行犯はここから進入したそうです。
でっかくて頑丈そうな扉がついていますが、戸締りをしていなかったのでしょうか。
真中の門から撮影する。向こうにある興礼門の大きさで、その広さが分りますか?
朝鮮総督府はこの辺りに建っていました。
興礼門(2001年復元)
ここ、思いっきり囲われているんですが。
まさかここを通った?
興礼門を抜けると
勤政門
正殿である勤政殿への入り口で、この写真は勤政殿から見て撮っています。
勤政殿
ここは公式行事を行う場所
勤政殿内の玉座
衛兵がやってくる。
閔妃暗殺時、彼らは何をしていたんだろう?
ここも、当然がっちり囲われています。
勤政殿の左手から衛兵の通ってきた出入り口を抜けて
慶会樓へ行く事が出来ます。
李泰鎭によるとここを左側から北上との事。
写真は南側から撮っていますので、この左側を通ったと。
勤政殿から来るとしたらここを通過する事になります。
ここまでで、やっと半分。
無駄に広すぎ。
慶会樓の東には
思政殿があります。
普段政治を行う場所。会議室。
中に入って見ることが出来ました。
正面の部屋
左手の部屋
全面紙張り。
この辺りは宮殿内の主要部分ですから普段から厳重な警備がされているはずですよね。
しかも暗殺当日は閔妃だけではなく高宗も景福宮に滞在していました。
相当警備は厳重になっているはずですよね。ね?
どうやって、衛兵に気付かれずに進入したの?
…と書いたところで、気が付いたけれど逃げたとされていると教えて貰いました。
逃げるなよ……○| ̄|_
さて、ここからざくざくっと北上。(景福宮の左上1/4ほどは調査区域で、立ち入り禁止)
香遠亭
橋は朝鮮戦争前までは北向きにかけられていた。
写真は東側から撮っていますので、右手が北。乾清宮へと続く方向です。
説明図によると、この池の向こう側から進入したらしい。
現在は調査区域になっていて立ち入り禁止。
この奥が、お待ちかねの乾清宮。
閔妃暗殺現場とされている場所です。
あ!あの説明図だ!懐かしい^^
左下のちょろっとある青色の池が上の写真の香遠亭の池です。
この橋は今は南にかけられています。
乾清宮
やっとたどり着きました。
でも、残念ながら10月時点で誠意製作中(w
もしかしたら今ごろ出来上がっているかもしれません。
韓国旅行に行く人はぜひ完成後の写真を撮ってきてください^^
右手奥が遺体を焼いたという人工山「鹿山」ですか?
山というよりも雑木林じゃないかと。
韓国的にはこれでも山だというならそれでも良いですが、遺体を灰にする程焼くのにどれだけ時間が必要だと思ってるのかと。
現代の日本の最新式の火葬場でも数時間はかかりますが。
内田報告書によると命令を出したのが日本人荻原警部で、実行したのが韓国人だったとか。
灰になるまで本当に皆でぼんやり待っていたんだろうか…
ところで、以前はこのぼろい建物(「明成皇后遭難之地碑」)があったそうですが
http://www.independence.or.kr/unisql/dispatcher/NEW/japan/information/ruin/ruin_detail.htm?ruin_id=s0053j
これ、どうなちゃったんでしょうね。
ところで、どうして今ごろこのレポートを上げたかと言いますと、
明成皇后殺害事件のドキュメンタリーが来月の
12月21、22日に午後10時からNHK衛星放送で放映されるからです。
http://kuyou.exblog.jp/2597663/
この放送で恐らく三浦公使(一般的に閔妃暗殺の首謀者とされている)の子孫が、高宗の子孫に謝罪するシーンが出てくるはずです。
閔妃暗殺事件は分っていない事だらけですが、分っている事もいくつかあります。
・閔妃と高宗は政敵関係にあった。
・暗殺当時、高宗は宮中にいたが、三浦公使はいなかった。
・上記のレポートのように景福宮は無駄に広く、また当時は外国人にプライベートスペースまで公開していない。
・当時の朝鮮の風習は身分ある女性は顔を見せない物で、閔妃も当然顔を知られていなかった。
・閔妃は死後一度、大院君(高宗の父親)に平民に落とされた。
この辺りを知っておくと、冷ややかな目で謝罪シーンが見られるかなと。
と、嫌がらせをしたところでレポートに戻る。
光化門に戻ってきたら守門将交代式をやっていました。
勇ましいですね。
ところで。
何度もしつこいようだが、閔妃暗殺事件当時、君達は一体何をしていたんだい?
(dreamtale氏に感謝!)