言語感覚の問題 山田孝男
愛国という言葉はなじめない。占領下のレジスタンス運動ならともかく、日常生活で愛国を振り回されてはかなわない。国を愛するも同じ。そういう気恥ずかしい言葉はめったに口にしないという感覚を守り抜いてこそ日本の伝統にかない、真の愛国者たりうると思っている。
小泉純一郎首相の場合はどうか分からないが、先週末はっきりしたことの一つは、首相が自民党新憲法草案の前文に「国を愛する」という言葉を盛り込まなかったということである。
今月初め、新憲法起草委員会「前文」小委員長の中曽根康弘元首相が自らまとめた前文案に「国を愛する国民の努力によって国の独立を守る」という一節を盛り込んだが、小泉首相が指揮した28日の最終調整であっさり退けられ、「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る」という表現になった。
なにも「愛国」を持ち出すやつは軍国主義者だなどというつまらないことを言いたいわけではない。長年この問題に真剣に取り組んでこられた元首相には恐縮だが、政治的、思想的判断ではなく、社会に幅広く受容される言葉の選択を問いたいのである。
「バカの壁」の養老孟司先生が「私が愛国心という言葉を使わないのは自分の女房に『愛してる』なんぞといわないのと同じ」(中央公論04年12月号)だと書いておられるが、けだし名言というべきだろう。
憲法は国の基本法である。「論憲」の今でこそ権威が揺らいでいるが、仮に新憲法が定まって権威が備われば大きな影響力をもつ。言葉の吟味が重要だ。(編集局)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20051031k0000m070118000c.html
>そういう気恥ずかしい言葉はめったに口にしないという感覚を守り抜いてこそ日本の伝統
確かに日本的ではあるけれど、これは日本の悪癖だと思っている。
言わなければ伝わらない事のほうが、世の中多い。
言っても伝わらない事も多いんだから。