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元日本兵の貢献、ベトナムで認知の動き
元日本兵の貢献、ベトナムで認知の動き 「封印の歴史」報道

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 ベトナムで敗戦を迎えた元日本兵が、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加、独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946―54年)を共に戦ったことを公に認知する動きがベトナム国内で出ている。元日本兵の存在はベトナムでは「封印された歴史」だったが、ハノイ大で昨年、研究会が2度開かれたほか、複数のベトナム紙も元日本兵の貢献を大きく報じた。

 8月7日付のベトナム紙ティエンフォンは「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで日本兵が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本兵の支援が必要だった」などと指摘し、ベトミンに大量の武器を供与した井川省(いがわ・せい)少佐や陸軍士官学校教官の中原光信(なかはら・みつのぶ)少尉ら功績のあった元日本兵数人を実名で報じた。

 抗仏戦争で多くの元日本兵が死亡し、「革命烈士」の称号を贈られた人がいることも紹介した。

 40年にベトナムに進駐した旧日本軍をめぐっては、これまでは「侵略軍」として断罪されることが多かった。近年、両国の経済関係が緊密化する中で、大阪経済法科大の井川一久(いがわ・かずひさ)客員教授らが、残留日本兵の功績を認めるようベトナム政府に強く働き掛けてきたことなどが元日本兵認知の背景にある。

 井川教授によると、ベトミンに参加した元日本兵は約600人。(1)敗戦で日本の将来を悲観した(2)現地に恋人がいた(3)抗仏戦を決意したベトナム人への共感―などが理由という。

 元日本兵は「新ベトナム人」と呼ばれ、ベトミン軍に軍事訓練などを指導して共に戦い、約半数が戦病死したとみられている。54年のジュネーブ協定締結により抗仏戦争が終結した後、150人以上が日本に帰国した。

 井川教授は「抗仏戦を有利に展開する決定的な役割を日本兵が果たしたことを歴史として残さなければならない」と述べ、ベトナムに資料館をつくる活動を進めている。

 似たような戦後を生きた日本兵としては、対オランダ独立戦争に参加したインドネシア残留日本兵の存在が知られている。

 ■ベトナムと旧日本軍 1940年、フランス領のベトナムに進駐した日本軍は45年3月、フランスの植民地権力を解体しベトナムを形式的に独立させた。同年8月の日本の敗戦を機にベトナム独立同盟(ベトミン)の蜂起で8月革命が起き、9月にベトナム民主共和国が独立を宣言し、ホー・チ・ミンが初代大統領に就任。しかし、ベトナムの再植民地化を狙うフランスと衝突し、46年に抗仏戦争(第1次インドシナ戦争)が始まった。ベトナムにとどまった旧日本軍兵士がベトミン側に参加。ディエンビエンフーの戦いで敗れたフランスは54年7月にジュネーブ協定を締結、戦争は終結したが、ベトナムは南北に分断された。(共同)



 ベトナムには、1954年以降に帰還した元日本兵と現地女性の間に生まれた子供が暮らす。正確な人数は不明だが、数百人いるともいわれる。その大多数が父と再会することなく、身分を隠したり差別を受けながら苦難の人生を歩んだ。元日本兵の父を持つ北部タイビン省出身で、現在南部カントー市に住むレ・ヒエップ・チンさん(55)が自らの境遇を語った。

 母は女手一つで4人の子供を育て、大変な苦労をした。母は、貧困の中で父への恨みを言ったものだ。ベトナム戦争が終われば父が帰ってくるのではないかと待ち続けたが、音信はなかった。

 わたしはベトナムにも日本にも受け入れられない存在だった。つらかったのは「日本ファシストの子」とののしられ、あらゆる差別を受けたことだった。共産主義を信じたが、党員になることは認められなかった。ベトナム戦争にも志願したが、入隊は認められなかった。ベトナムがカンボジアに侵攻した後の1979年に入隊が認められ、ベトナム人としてようやく認知されたと感じた。

 90年に突然、父から手紙が来た。「苦労をかけた」と謝罪の言葉が続き、最後に「それぞれの人生を歩もう」と書かれていた。母は怒っていた。これが父からの最初で最後の手紙だった。

 98年に日本にいる息子という人から手紙が届き、その2年前に父が他界したと知った。「遺品を整理していてベトナムの家族の存在を知った」「どうか父を許してやってください」とつづられていた。姉が日本に行き、父の遺骨を分けてもらった。

 母は昨年11月に亡くなった。父を待ち続け、再婚することなく終えた83歳の生涯だった。2人の遺影は同じ祭壇に置いている。父は無責任だと思う。でも一目でいいから会いたかった

http://www.sankei.co.jp/news/050920/kok059.htm


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    by oneearth | 2005-09-20 17:33 | 歴史
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