脱ゆとり、16年前の厚さに 文科省の中学用検定
文部科学省は5日、来春から使用される中学校教科書の検定結果を公表した。学習指導要領の範囲を超える「発展的内容」が中学で初登場し、学力低下を受け練習問題も増加。ページ数は現行に比べ数学と理科がともに23%増えるなど、ゆとり路線のスリム化から一転、教科書の厚さは16年前の水準に戻った。
現行教科書で消えた理科の「イオン」「進化」「元素周期表」のほか、数学の「二次方程式の解の公式」など高校レベルの内容が、軒並み発展的内容として復活した。
社会科では、従来の教科書を自虐的と批判する「新しい歴史教科書をつくる会」が主導、扶桑社が発行する歴史と公民の教科書が前回2000年度検定に続き合格。
日韓が領有権を主張する竹島について「韓国が不法占拠」との記述もあり、外交懸案として、教育委員会などの採択状況も焦点となりそうだ。
はて?事実を記載して何か問題でも?
竹島(韓国名 独島)が紛争地帯だということがやっと周知されて来ましたが、日本の主張の方が論理的事実に基づくということはあまり知られていません。
と言うわけで、今日は竹島問題をエントリー。
前回はoppekepe7氏のスレから、
実効的支配の証拠が必要であると言うところまで説明しました。
では、実際に韓国の主張する実行支配が証拠として認めら得るものなのか、検証します。
oppekepe7氏のスレより
韓国が竹島と比定している于山島を「史料」に基づき検証しようと思う。最初に、実際の鬱陵島と竹島の位置関係、形状をよく記憶して頂きたい。
半島と鬱陵島と竹島の位置関係
竹島の形状
鬱陵島の形状
以上より、形状及び地理的位置の特徴を整理すると、以下のとおりである。
・鬱陵島と竹島は、90km程度(鬱陵島の東西の幅の10倍程度)の距離がある。
・鬱陵島には、3km程度(鬱陵島の東西の幅の1/3程度)離れたChukdo-islandがある。
・竹島は西島と東島の2つの主島から構成される。
上記をよく頭に入れて、朝鮮及び大韓帝国が作成した鬱陵島及び于山島(韓国が竹島と主張)の地図を見てみよう!!

1530年 八道総図
于山島が鬱陵島の左(西)に位置しており、実際の位置関係と正反対。形状も竹島とは異なる。韓国人の言うとおり、鬱稜島から竹島が「見える」のであれば、当時の天測の技術でも方角を正反対に間違えることはない。

1673年 朝鮮八道古今総覧図
于山島が鬱陵島の上(北)に位置しており、実際の位置関係と異なる。形状も竹島とは異なる。

18世紀初頭 天下??一覧誌図
于山島が鬱陵島の左(西)に位置しており、実際の位置関係と反対。形状も竹島とは異なる。
18世紀後半 朝鮮全図
于山島が鬱陵島のすぐ横(鬱陵島の東西の幅の1/4程度)に位置している。形状も竹島と異なり、現chukdoに比定するのが適切
18世紀後半 輿地図
于山島が鬱陵島のすぐ横(鬱陵島の東西の幅の1/8程度)に位置している。形状も竹島と異なり、現chukdoに比定するのが適切
19世紀前半 地図名不明
于山島が鬱陵島のすぐ横(鬱陵島の東西の幅の1/8程度)に位置している。形状も竹島と異なり、現chukdoに比定するのが適切
19世紀 朝鮮全図
于山島が鬱陵島のすぐ横(鬱陵島の東西の幅の1/8程度)に位置している。形状も竹島と異なり、現chukdoに比定するのが適切
19世紀前半 東国全図
于山島が鬱陵島のすぐ横(鬱陵島の東西の幅の1/3程度)に位置している。形状も竹島と異なり、現chukdoに比定するのが適切
1822年 海左全図
于山島が鬱陵島のすぐ横(鬱陵島の東西の幅の1/10程度)に位置している。形状も竹島と異なり、現chukdoに比定するのが適切
1899年大韓帝国 学部編集局作成 大韓全図
于山島が鬱陵島のすぐ横(鬱陵島の東西の幅の1/4程度)に位置している。形状も竹島と異なり、現chukdoに比定するのが適切
さて、上記の于山島の地図表記の変化で気が付くことがある。18世紀初めまでは、大きさ、方角、形状、距離においてCHUKDOとも竹島とも比定困難な「于山島」が描かれており、18世紀後半以降は徐々にCHUKDOを正確に表現するようになる。
そこで、韓国の史書の記述を見てみよう。鬱陵島以外の島の記述が掲載された一番最初の記録は、太宗実録12年(1412年)である。
命議政府議處流山國島人江原道觀察使報云流山國島人白加勿等十二名來泊高城於羅津言曰予等生長武陵其島内人戸十一男女共六十餘今移居本島是島自東至西自南至北皆二息周回八息無牛馬水田唯種豆一斗出二十石或三十石麥一石出五十餘石竹如大椽海錯果木皆在焉竊慮此人等逃還姑分置于通州高城扞城
白加勿は、「11戸86人が、武陵島から流山国島に転居した。流山国島は、縦・横が2.5km、周囲が10km程度で豆や麦が採れる」と観察使に証言している。最初の地図を見ればわかるが、鬱陵島以外に人が住める島は存在しない。李氏朝鮮では、1403年に鬱陵島の空島政策を実施しており、犯罪の発覚を恐れての嘘であろう。
架空であることから、確かな情報が存在せず、確認もできず、「流山国島」は「于山島」に転訛し、後々の認識に混乱を生じさせる。この混乱は史書からも明確にわかる。
于山島と鬱陵島は同じ島(太宗実録)
于山島と鬱陵島は別の島(世宗実録地理誌)
別の島と同じ島の2説並記(高麗史地理志、東国輿地勝覧)
注)何れの史書においても、島の状況の描写は鬱陵島のものしか存在しない。
また、地図上の表記も「周囲10km、縦・横2.5km」という白加勿の嘘を忠実に、鬱陵島より、やや小さめに描いていることがわかる。
この後、1696年に安龍福の鬱陵島への密航事件が発生した。安龍福は日本の漁師に連れられて竹 島を見たかもしれない。しかし、それが李朝の認識を変えるまでには至らなかった。安龍福の事件後、李朝は3年に1度の頻度で、鬱陵島に捜討官を派遣するようになり、鬱陵島の知見が増えてくる。鬱陵島の様子が判明するにつれ、于山島をCHUKDOに比定するようになったのである。このことは、上記の大韓全図の地図表記と共に、1882年に、高宗の于山島調査の命を受けて、102名の部下と7日間に渡って鬱陵島を大規模に調査した李奎遠の復命書で一層はっきりする。
「啓発書」
是白乎〓 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之 然既無圖籍之可據又無鄕導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指稱鬱陵 即如耽羅指稱濟州
李奎遠は復命書で「鬱陵島に住んでいる人は、松竹島や于山島を全て鬱陵島近傍の小島にあてている。晴天の日に高台に登って、千里を眺めたが、一欠片の石も、土もなかった。鬱陵を于山と呼ぶのは、済州を耽羅と呼ぶのと同じである。」と答えている。つまり于山は国の名前で、鬱陵は島の名前であると明確に断言しているのである。
以上より、韓国の史書や地図における于山島は、以下のような変遷を辿ったと結論することができる。
「白加勿の嘘の島(鬱陵より小さめ)」→「鬱陵島近傍のCHUKDO」
なお、地図表記や史書の「見える」という記述は、「国家権力の外部的表現(external signs)」には、該当しません。例え、于山島が竹 島と仮定しても、国際法上の領域権原の取得を示すものではありません。反対にMinquiers and Ecrehos小島群の判例において、このような「間接的推定」は否定されております。
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