旧皇族系の李錫さん「父は六穴砲を撃ち『倭奴を放逐せよ』と」
「六穴砲(レボルバー式6発拳銃)を天に向かって撃ち『国を奪った倭奴(日本人の蔑称)を放逐しろよ!』と叫んだ父の姿がはっきりと記憶に残っています」。朝鮮王朝最後の皇孫、李錫(イ・ソック、本命:イ・ヘソック、64)さんが最近、全羅北道(チョンラブクド)外国語志願奉仕会が刊行した『国境を崩す人たち』に自分の幼少時や父の義親(ウィチョン)王の姿などを紹介した文を掲載した。
李さんは「わたしの生まれた場所、寺洞宮(サドングン)を思って」なる題名の文で「幼いころに宮廷の北にあるカキの木に登って遊んで尚宮(サングン)らに厳しく怒られたり、ヘギョン姉さんが聞かせてくれた面白くて愉快な冗談が記憶に残っている」と当時を回想した。 また「(日本に国を奪われた後)父はほぼ毎日酒を飲み、床をたたきながら『わしが死なねば。わしがこの世から消えねば』と話すと、横にいた母が『殿下、床が抜けてしまいます。お静まりを』と話していた」と述べた。
李さんが生まれた寺洞宮(現在の安国洞にあった)などは1945年の植民地解放以降すべてなくなってしまい、朝鮮戦争が起こった後は家族で安国洞(アングクドン)にあった離宮(現在の豊文女子高)を離れ、避難民のような生活が始まったと李氏朝鮮王朝の没落をつづった。
李さんは高宗(コジョン)皇帝の息子、義親王の第11子にあたる。
http://japanese.joins.com/html/2005/0130/20050130172500400.html
ええと、4歳前の時の記憶?
床が抜けるような屋敷に住んでいて、戦時中に飲んだくれていられた?
義親王
高宗と側室・張夫人の間に生まれた庶子・義親王カン(生没年1877年-1955年)は1910年の日韓併合によって朝鮮公族となったが、反日運動にも参加した。義親王は公式には2人の息子があるとされる。長男李鍵(イ・コン)は日本人女性(華族)と結婚し、戦後臣籍降下して日本に帰化、桃山虔一と名乗ったが、日本人の夫人とは離婚した。次男イ・ウは日本の軍人となったが広島で原爆にあい、爆死した。
だが義親王は実際には妾腹も含めると13男9女を設けており、その11番目の子が現在韓国で有名な李錫(イ・ソク)である。義親王の多くの子と同様、庶子である。義親王の子のうち、イ・ソクとその妹で今は結婚して主婦となっている女性だけが現在韓国内に居住しており、他の生存者はすべてアメリカに移住している。イ・ソクは若い頃韓国で歌手として売れたが、住んでいた宮殿が国に没収されたため、一度米国に移住したことがある。このイ・ソクの娘が現在女優を名乗る李洪(イ・ホン)となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%8E%8B%E5%AE%B6#.E7.BE.A9.E8.A6.AA.E7.8E.8B
つまり庶子ですか。
http://www.geocities.jp/nakanolib/giten/kizoku.htm
韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)により、李王(旧大韓帝国純宗皇帝)の現在の血族で王公族の礼遇を享けない者、および門地または勲功ある朝鮮人を貴族に列し、爵位を授けることになり、朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)を定めた。これにより、公・侯・伯・子・男の五爵の朝鮮版華族制度が導入され、約60の家が生まれた。
朝鮮貴族は基本的には華族と同様の特権および礼遇を享けた。ただし、華族とは異なって東京在住が義務付けられることもなく、朝鮮に在住し、創氏改名しない者も多かった。また貴族院議員となる資格はなかった(勅選議員として朴泳孝侯爵が勅任されたほか、昭和20年に朝鮮・台湾勅選議員として2名が任命された例はある)。
とあるから、終戦前までは結構いい暮らしをしていたと思うな。
韓国が独立して、財産没収されててから没落したと。
って、全部韓国の所為じゃないの!!