香山リカ:「原発事故報道を見たくない」人が激増! ――心の防衛機構「解離」が指導者層にまで浸透している現状は「きわめて危険」
(略)
「職場で原発にセンシティブな人とそうでない人とがはっきり二分されてしまい、お互いグループを作って接触を避けている感じ」と教えてくれた知人もいた。
「原発事故を見たくない」が招く、「解離」心理
原発事故にあまり反応しない、あるいは関心を示さない人たちには、いくつかのタイプがあるはずだ。
まず、「たとえいくらかのリスクはあっても、日本経済のために原発は不可欠」という信念を持って、原発を容認あるいは推進しているタイプ。
次に、原発について容認派か否定派かは置いておいて、理性的、ないし科学的に判断して、原発事故の報道に必要以上に過剰に反応しないタイプ。
最後に、「考えたくない」「考えても仕方ない」という消極タイプだ。
元々は思いやりもあり優しいほう、という先の女性の夫は、消極タイプなのかもしれない。
消極タイプがさらに進むと、この災害や事故自体を「なかったことにしたい」とか「現実のできごとと思わないことにしたい」とか、自分の心と今の状況との間にシールドを設けてしまう人が出てくる。
これが、「解離」と呼ばれる心の防衛メカニズムだ。
虐待児童は、「解離」で現実から逃避する
「解離」は、児童虐待を受けた子どもでしばしば認められることがある。
子どもが、虐待を受けたことをまるごと覚えていなかったり、「あれは夢なの」「映画で見たことだ」と言ったりすることがある。事実をそのまま認めてしまうと心が潰れてしまうので、それを恐れ、心が「解離」を起こしている結果なのだ。
虐待児童と同じ心理状況に、震災以来の日本人が陥ってしまっているのではないか。
特に、今後とも収束まで長期間にわたり神経質な対応が必要な原発事故は、日本人の心に大きな影を落としている。「ナイーブな人たち」がその影響を受けてしまうのは、十分あり得る話だ。
原発事故の報道は、実際、嫌でも毎日目に入ってきてしまう。それにもかかわらず、「なかったこと」「自分にはまったくかかわりがないこと」のように距離を置き、仕事とかギャンブルなど他の問題に没頭して過ごす、というのも、まさにこの「解離」のメカニズムが起きた結果と思われる。
政治の不全にも、指導者層の「解離」が影響しているのか
もしかすると、脱・原発の動きが加速するヨーロッパを横目で見ながらその動きがなかなか社会化していかない日本は、国全体で「解離」を起こしているのかもしれない。
そういえば、毎日、東電の「ふくいちライブカメラ」で福島第一原発のリアルタイム映像を一日中ウォッチしながら、「どうしてもこれが地続きの場所で起きているとは思えない。廃墟SFか何かのワンシーンにしか見えない」と診察室で語った、ひきこもり気味の青年がいた。
わずか4か月前には、菅総理も枝野官房長官も自分たちが原発事故について議論したり会見するとは、想像もしていなかっただろう。もしかするといまだに、ふとした瞬間に「え、これって現実? 夢か何かじゃないの?」とリアリティーを見失うことがあるのではないだろうか。
これらも、「解離」のひとつである。
もう少し敷衍すると、こんな時期に政局に明け暮れる国会自体、いちばん強い「解離」を起こしていると考えることも可能だ。
日本社会全体で起きている「解離」がどのように表出しているか、次回も考えてみたい。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110621/275006/?P=1&ST=rebuild
正直、「解離」してられる人は能天気だなと思ってしまう。
出来る事は沢山あるのにねえ。