記者の目:映画「靖国」=勝田 友巳(学芸部)
ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」(李纓(リイン)監督)上映をめぐる騒動が続いている。「反日的」との批判が独り歩きし、東京、大阪の5館で予定していた12日からの公開が中止に追い込まれた。その後、全国約20館での公開が決まりつつあるが、火種はくすぶったまま。事態の展開は予想外で、映画の関係者は一様に「こんなことになるとは」と驚いている。私も同じ。混乱を招いたのは、作品とかけ離れた、実体の定かでない「空気」を読み過ぎたためだと思う。
映画は、第二次世界大戦中に、靖国神社境内で軍人に贈られた「靖国刀」を鍛造した老刀匠と、神社を訪れる賛否両派の人々を映し出す。最後は、中国人捕虜惨殺の写真や戦時中の映像で締めくくられる。
第62回毎日映画コンクールのドキュメンタリー部門で、昨秋の最終選考に残った7作品の1本だった。評価は高かったものの未熟さも指摘され、受賞には至らなかった。私も映画担当として選考にかかわり、映画を見たが、労作だが欠点も多いというのが率直な感想だ。デリケートな素材に果敢に踏み込んでいるものの、編集や構成に難があり、素材を生かしきれていない。反日的というほど激しい主張もなかった。こんな事態にならなければ、大きく取りざたされることはなかっただろう。
騒ぎは昨年12月、週刊誌などが「反日的映画に、文部科学省が管轄する『日本芸術文化振興会』の助成金750万円が支払われている」と報じたことに端を発した。これを見た自民党の稲田朋美議員が今年2月、映画を見たいと文化庁に伝える。マスコミ向け試写と議員の日程が合わず、文化庁がおぜん立てする形で3月12日、全国会議員向けの試写が行われた。映画を見た稲田議員は助成金支出を問題視し、国会で取り上げた。
次第に報道が大きくなり、大手シネマコンプレックスが運営する東京・新宿の映画館が同15日、公開中止を決定。その後で右翼団体が2回の街宣活動などで抗議し、同31日までに公開予定の全館が取りやめた。
稲田議員が映画を見たいと望んだことに、問題はなかったと思う。批判は見てからという最低限のルールは守ろうとしたからだ。しかし、文化庁が試写会を設定して議員の意向をくんだ形になったのは、仲介者としての引き際を見誤った勇み足だった。稲田議員の言動も配慮に欠けたと思う。助成金はすでに支出されており、是非を問うのは公開後でもよかったはずだ。議員は後に「公開中止は遺憾」とコメントしているが、それが本音なら、国会議員の影響力に無自覚すぎた。一方、映画館が万が一を心配する心理は分かる。だが現場よりも運営会社の意向を重視したような中止決定は、実態があるかなきかの不穏さを先読みしすぎたのではないか。
不用意な言動や余計な気遣いが、作品を置き去りにして、おかしな「空気」を生み出した。その空気に過敏に反応したことが、事態を悪い方へと押しやったように思う。
今なお、自民党の有村治子議員は、映画に登場する刀匠が出演場面の削除を求めていると訴えている。しかし、それは監督と当人の間の問題だ。助成の是非とも一線を引くべきで、政治が口をはさむ筋合いではない。靖国神社も、「事実を誤認させる映像などが含まれている」と映像の削除を要求しているが、作品の内容は表現者の物だ。こうした要求が安直に公開中止と結びつくとしたら、それこそ表現の自由の危機だ。
映画は、自由で影響力が大きいメディアだ。だから時に物議を醸す。98年、東条英機を英雄的に描いた「プライド 運命の瞬間(とき)」(伊藤俊也監督)に、上映反対の声が起きた。同じ年、中国映画「南京1937」をめぐって、右翼団体がスクリーンを切り裂いた。でも、いずれも公開中止にまでは至らなかった。ところが今回は、さしたる脅威も見当たらないのに、公開中止。いやな空気が広がって、表現の萎縮(いしゅく)につながらないかと心配だ。
しかし私は、映画界のしぶとさに期待している。作品を酷評されても、無視よりはマシとうそぶく業界だ。根底には反骨精神がある。「靖国」は今、最も注目を集める作品になった。したたかに、逆境を好機に転じればいい。関係者への配慮は欠かせないにしても、何とか監督の思い通りの形で公開してほしい。映画がヒットすればこの空気も吹き飛ぶだろう。そしてどんな形であれ関心をもった人は、映画館に足を運ぼう。議論と批判はそれからだ。
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20080415k0000m070127000c.html
肖像権の問題をクリアしよう。映画を見るのはそれからだ。