ソウル・黒田勝弘 今も変わらぬ?対日観
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江戸時代に朝鮮(韓国)から日本に派遣された公式使節団「朝鮮通信使」から今年が400年という。これにちなんで日韓双方で記念行事が活発だ。日韓が友好関係にあった時代の文化交流の再評価というわけだが、当時、日本各地で庶民レベルにまで関心を呼んだ朝鮮通信使は、いわば“韓流”の草分けだった。
朝鮮通信使(“信”を“通”じる使節団という意味)は計12回派遣され、毎回400人前後の大規模なものだった。対馬経由で江戸に向かい往復6カ月、海路や陸路で日本を旅した。
申維翰著『海游録』(平凡社・東洋文庫)は1719年、徳川吉宗の将軍就任祝賀で訪れた9回目の使節団の製述官(書記)による日本訪問記だが、今読み返しても実に面白い。
一行は日本のいたるところで歓迎され、漢詩や書、儒教思想など“文化”を求める日本人が押し寄せた。その様子は「群倭が雲の如く集まった」「詩を乞う群倭に悩まされ鬱々とし」「文筆をもって悩まされること甚だしく、眠ることができない」ほどだったというが、面白いのはこの記録が日本のことを終始、「倭」といい日本人のことを「群倭」と書いていることだ。
これは明らかに蔑称(べっしょう)である。
そこで日本側の接待役として同行していた対馬藩の朝鮮通である雨森(あめのもり)芳洲が、お宅の文献にもそうした蔑称がしきりに出てくるが困ったものだ、これからは「日本」「日本人」といってほしいという。
ところがこれに対し申維翰(著者)は、蔑称は(朝鮮を侵略した)豊臣秀吉への悪感情から出ているのだから理解しろといい、秀吉論になる。申維翰に「君は秀吉の悪を語るをなぜはばかるのか」といわれた芳洲は「(秀吉には)少しの功徳もない」と調子を合わせるが、申維翰はさらに「加藤清正は最も凶悪であり、その子孫が官となり民となってやってきても対面して叙話するわけにはいかない」から、面会者については気を付けてくれという。
秀吉の朝鮮出兵はこの時より120年前のことである。豊臣家を滅ぼした徳川家ということで、朝鮮は徳川幕府と国交正常化し使節団を派遣するようになったのだが依然、こだわりは強かった。
そのため一行は京都での大仏寺訪問予定も、秀吉ゆかりの寺だから訪問を拒否すると言いだし大もめしている。「吾が決して寺門に入らざる所以は、義は讐(うらみ)を忘れざるからである」というのだ。
さて「倭」で思い出すのは最近、北朝鮮の労働新聞など国家メディアが日本のことをしきりに「倭」と称し、「倭国」とか「倭王」などといった言葉を使っていることだ。国家的次元で日本をバカにしたつもりなのだが、いわば400年前と同じ国家感覚ということだろう。
ところが一方で『海游録』は、「倭人」は7世紀に「倭の名をきらって、国号を日本と改めた。日本の称は、これより始まった」と紹介している。
そして「天皇」の呼称についても、「倭皇」という表現も使ってはいるもののとくに異は唱えておらず、逆に大昔、「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す」といった文書を中国に伝達した話まで紹介し、さらに「天皇に名があり姓がないのは、仏の如きものである」などと解説している。
21世紀の現在、韓国のマスコミは日本の「天皇」を「日王」と称し、格下げ気分で今なお留飲を下げている(?)が。 『海游録』における日本見聞で興味深いのは、当時の日本について「精巧」「精妙」「清浄」「清潔」「鮮浄」「新浄」「精麗」「繊細」「巧緻」…といった言葉を多用し、その清潔さやすべてにきちんとしている様に驚きを示していることだ。
そして江戸はもちろん京都、大阪のにぎわいぶりや、各地で接待を受け持った地方の経済力にも感嘆している。
朝鮮通信使について幕府の重鎮で儒学者の新井白石は「(秀吉のことなど)軍事では日本にかなわないので文でその恥をそそごうとしている」と冷めた見方をしていたことで知られるが、申維翰をはじめ使節団は漢詩や儒学など“文”では確かに日本人を大いに関心させ、交流の実を上げた。
しかしこの交流は、朝鮮(韓国)側にはどんな結果をもたらしたのだろう。『海游録』などの対日交流リポートが伝える日本文化は、その後の朝鮮内部にどんな影響を与えたのだろうか。
「朝鮮通信使」に対する「日本通信使」は最後まで実現しなかった。本当の相互交流にはなっていなかったのである。交流とは決して簡単なことではない。
http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/070623/kra070623000.htm
400年変わらなかったのなら、あと400年たっても変わらないんじゃないですか?
日本の200年〈上〉―徳川時代から現代まで<