フセイン判決 疑問はぬぐえない
イラクのフセイン元大統領が、イラク高等法廷から死刑を言い渡された。控訴の道があるので刑は確定したわけではないが、極刑は変わらないだろう。
裁かれたのは、24年前にイスラム教シーア派の住民多数を虐殺した事件である。これが「人道に対する罪」にあたるとして、虐殺を命じた元大統領らを有罪にした。
独裁者だったフセイン氏が、過去に犯した罪を問われるのは当然だ。しかし、われわれはこの裁判の公正さについて、いくつかの問題点を指摘してきた。
イラクの国内法に基づく法廷とはいえ、米軍が占領していたときにつくり、全面的に支援してきたものだ。裁判官もフセイン時代に迫害されたシーア派やクルド人だけで構成され、スンニ派は入っていない。
判決の時期が米国の中間選挙の直前になったのは偶然なのか。シーア派が主導権を握る現イラク政権は、宗派対立による治安の極端な悪化に手を焼いている。元大統領の断罪でスンニ派の士気をくじこうという思惑はなかったか。
そんな疑問もわいてくる。公判の過程で裁判長が何度も交代したり、被告の弁護人が殺されたりした。治安への影響から、公判の公開を制限したりもした。平穏な国と同じ水準で公正な手続きを期待するのは難しいかも知れないが、ならば判決を急ぐ必要もなかった。
マリキ首相は、治安回復の一手として、隣国ヨルダンに逃げたフセイン政権の残党を含め、スンニ派勢力との和解を探っている。その時にスンニ派住民の感情を刺激するのはかえって逆効果にならないか。
控訴審が開かれるのなら、こうした疑問に応えうる法廷にする必要がある。判決の正当性に疑いが持たれるようでは、単なる報復と同じになってしまう。法による正義を確立して初めて、裁判は真の和解や再生につながることになる。
もう一つの大きな疑問は、ほかにも問われるべきことがあるのではないかということだ。住民らの弾圧、虐殺などの罪を問うのは当然としても、元大統領の最も大きな罪は対イラン戦争やクウェート侵攻、そして今回のイラク戦争を招き、多くの命を失わせたことだ。
大量破壊兵器の開発に走り、近隣国を侵攻した引き金は何だったのか。背後にどのような国際的駆け引きがあり、どこで判断を誤ったのか。イラク国民にとっても、国際社会にとっても、この責任をこそ問いたいのではないか。
20年以上に及んだフセイン独裁には、米国を軸とする国際政治が微妙に絡んでいた。イランの封じ込め戦略の一環として、米国が91年の湾岸戦争の直前までイラクを軍事的、経済的に支援していたのはまぎれもない事実だ。
中東では、各国の石油戦略が交錯する。フセイン氏のような怪物を再び登場させないために、そうした面にも審理の光をあてれば、裁判の意味が深まる。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
朝日は報復裁判はどんな判決でも受け入れるべきという立場だと思っていた。