ちょっと長いけれど、面白いので読んで見て下さい。
林思雲 「福沢諭吉の「脱亜論」を読んで」
原題:「読福沢諭吉『脱亜論』有感」
(一)
福沢諭吉の「脱亜論」は中国で広く知られている。中国では「脱亜論」に対する見方は大部分が批判であって、福沢は「アジアの隣国に対して軽蔑した態度を取り、列強を真似て侵略することを主張した」と見なされている。しかし「脱亜論」の断片を見たことがあるだけで、「脱亜論」の全文を読んだことのない人間が普通である。私がここで「脱亜論」を全訳したのはこのためであり〔訳注・2004年末に『日本華網』インターネットサイトで「脱亜論」全文の中国語訳を掲載したことを指す〕、関心のある人びとの参考にしてもらおうと思ったのである。
「脱亜論」を翻訳する過程で多くの資料を参考にせざるを得なかった。しかしこのことはかえっていい勉強の機会になった。私が「脱亜論」を通読して得た第一の感想は、中国人は福沢諭吉のことを相当程度誤解しているというものである。なによりもまず私は、いわゆる福沢の「アジアの隣国に対して軽蔑した態度」という見方が問題だと思う。
その理由を述べるために、福沢が「脱亜論」を書いた背景を見なければならない。
「脱亜論」が書かれたのは1885年である。この文章は『時事新報』(現在の『産経新聞』の前身)の社説として発表されたものであり、当初題名はなかった。「脱亜論」はのちに福沢の著作を出版する際、別人がつけた題名である。福沢がこの文章を書いたことについては、当時の日本の世論において闘わされていた思想的な論争の情況がある。日本は中国・朝鮮といった隣国の二国とどうつきあうべきかという論争である。
中国と日本は、冊封・朝貢関係の歴史である期間が長かった。言葉を換えれば一種の不平等な関係である。米国の砲艦が1853年に日本に侵入して日本は「日米和親条約」という不平等条約を強制的に締結せざるをえなくなった。こののち日本は英国・ロシア・フランスなどとも続けて同様の条約を結ばせられた。そして強制的に“開国” させられたあとの日本では、有識者が西洋強国の技術に学んで自強と自存を図るべしという主張が行われる。この情況は同時期の中国と非常に似ている。そして 1868年の明治維新はこのような背景において起きた。
当時の中国、日本および朝鮮はともに西洋列強の侵略にさらされており、国家と民族の滅亡の危機に瀕していた。だから三国は西洋の侵略への“抵抗”という点においては利益を共有しているといえた。このような背景のもとに、日本では“興亜論”(のち“大亜細亜主義”も呼ばれる)を唱える人間が出現する。代表的な論客には勝海舟、植木枝盛、大井憲太郎、樽井藤吉など、当時の日本における有名な政治家や思想家が含まれている。“興亜論”は、日本とアジアは唇歯輔車の関係にあり、隣国が滅びれば日本にも危険が及ぶという認識に基づくものである。そのために彼らはアジア――中国と朝鮮が主な対象だが――の覚醒を促し、日本・中国・朝鮮が同盟を結んで三国が提携して共同で西洋列強に対抗するべきである、それが日本にとって最善の国策だと主張した。
中国でもアジアは連合して西洋の侵略に対抗すべしという、これと類似した思想が生まれていた。たとえば梁啓超の「亜粋主義」、章太炎〔訳注・章炳麟〕の「亜洲和親主義」、孫中山〔訳注・孫文〕の「大亜細亜主義」、李大釗の「新亜細亜主義」などである。
“興亜論”はのちになると、“大東亜共栄圏”や“新東亜秩序”のような日本の指導下で西洋列強への共同抵抗理論に変化する。しかし1880年代の“興亜論”は、日本は中国・朝鮮と平等な関係で連盟を組織して西洋に当たることを主張している。なぜなら、当時の日本はまだ国力が微弱であり、当時の大国清とはきわめて大きな落差が存在したからである。
このような“興亜論”に対して、相反する思想を唱えたのは福沢諭吉である。それが“脱亜論”である。
アジアを覚醒させ共同で西洋の侵略に立ち向かうという“興亜論”の構想に、中国と朝鮮は旧套を墨守し、改進を考えず、革新を望まない。だから日本は中国と朝鮮の覚醒に希望を持つべきではないと福沢は反対した。(ただし中国・朝鮮に有識者が出現して大規模な改革維新を行うのであれば話はおのずから別になると、福沢は断っている)。福沢は、時代遅れで昔ながらの伝統に執着する中国と朝鮮は、日本にとってまったく助けにはならない、それどころかこれら時代遅れで腐敗したこれら二国の“醜”によって、日本までもが西洋人から同じように時代遅れで腐敗していると誤解される、と。福沢はこの理由によって、日本はもはやためらうことなく、中国・朝鮮二国の非文明国家(“悪友”)との交際を拒絶し、ヨーロッパの文明国家と交流すべきだと説いた。
福沢が中国・朝鮮二国に将来の希望はないと見なした核心の根拠は、両国が西洋文明を拒絶する態度である。中国と朝鮮は、みずからを西洋文明から隔離し、自身の独自の文明を維持しつづけようとしている。ところが日本は西洋文明に対して積極的に摂取しようとする態度を取り、みずからを西洋文明のうちに投じて、運命を共にする道を選んでいた。福沢によれば、西洋文明とは“麻疹(はしか)”のようなもので、伝染性を持つものであり、拒否すれば列強に国を分け取りにされて滅ぶのであるから、中国と朝鮮による西洋文明の拒否は到底成功しない。そして後の歴史は、中国と朝鮮について福沢の予見が正しかったことを証明した。西洋列強が植民地主義思想を改めていなかったら、中国も同じく分割されていたことはほとんど疑いないからだ。
私は、「脱亜論」を読んで、近代において中国が蒙ってきたさまざまな苦難や屈辱はかなりの程度、中国人がみずから“選択”した結果ではなかったかという思いを禁じ得ないのである。
遠く20世紀の80年代に至って、中国はやっと“対外開放”の重要性を悟り、積極的に西洋文明世界に参入しはじめた。今日では“世界につながる”が流行語である。対外開放して20年あまりで、中国の経済は驚異的な発展を見た。今日に至って中国人は、その昔の日本の急速な発展の秘訣が“対外開放”であったことを、やっと知ったのである。
しかし日本人は自国の富国強兵の秘訣をべつに隠していたわけではない。120年も前に、日本の福沢諭吉という思想家が、中国の停滞の原因は西洋文明を拒絶したことにある、対外開放を拒否したところにあると、すでに指摘していたのだ。悲しむべきことに、中国人は100年も経ってから西洋文明と運命を共にすることと、文明を同じくすることで苦楽を共にすることの重要性を、やっと理解したのである。もし中国が100年前に対外開放に踏み切り、世界とつながっていたら、近代中国の歴史はきっと別の様相を呈していただろう。そうすれば近代中国の屈辱と傷痕に満ちた悲惨な歴史はなかったはずで、だから私は、中国が近代に蒙ったさまざまな苦難と屈辱はかなりの程度中国人がみずから“選択”したのだと言うのである。
もし当時の日本における“興亜論”と“脱亜論”のどちらがより正しかったかを言うとすれば、日本の立場からすれば、“脱亜論”のほうが正しかったということになる。事実においても日本政府は脱亜入欧の発展方針を選択した。もし日本がその時“興亜論”を選択して、中国と朝鮮が覚醒し、自強するのを待って、両国と同じ塹壕に立つことにしていたら、日本の今日の発展はあったか。福沢諭吉の“脱亜論”は、未来の展望としてきわめて正確なものだった。
福沢の肖像が日本の最高額紙幣の上にあるのも不思議ではない。彼を批判する人間もあまり聞かない。福沢は現在の日本があることに関して、日本人がもっとも感謝して当然の人物の一人なのだから。
(二)
中国近代史を一言でいえば“反抗”の二字である。“抗英”、“抗日”、“抗美”、“反帝”、“反修”であり、いまでも“反日”がある。中国近代とは外国との抗争の歴史であって、中国人は近代以後一貫して“仇外〔外国を仇敵視する〕”心理にある。
“仇外”は当然ではある。中国は外国人に侵略され、不平等条約を強要されて署名させられたほか、中国が“仇外”になる理由があろう。だが同じように侵略を受け不平等条約を押しつけられた日本はなぜか“仇外”とはならなかった。それどころか、日本はみずからを侵略し不平等条約を押しつけた西洋列強と友好関係を結んだ。
このことに関して、福沢諭吉の「脱亜論」は、日本の西洋人に対する見方をよく表している。
「然ば則ち文明を防て其侵入を止めん歟、日本國は獨立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の獨睡を許さゞればなり」という福沢の言は正しい。彼は100年以上前に西洋文明がおしとどめることのできない歴史の流れであることを見極め、その潮流を阻もうとすることやそこから身を避けようとすることは愚かであり、みずから進んでその潮流に乗るのが賢明な方策だと認識したのである。
だが中国は、その西洋文明の潮流に対して一貫して対抗の姿勢をとり続けた。“夷を以て夷を制す”や“中体西用”から“中国の特色を持つ社会主義”まで、すべて外国人を追い出す、あるいは閉め出して中へ入れまいとする試み続けた。つまり“排外”の二字である。アヘン戦争以後の中国人は西洋に学ぼうとしてきたが、学ぶのは“夷の技の長ぜるを師(まな)びて以て夷を制す”るためであり、西洋文明の持つ銃砲で西洋人を国内に入ってこないようにするためである。
中国は自身が西洋文明圏に加わることは少しも望んでいなかった。この点、“入欧”のために西洋文明圏に加わろうという日本の思考とは根本的に異なっている。
中国が外国人が自国へやってくるのを歓迎し外国人の投資を歓迎するようになったのは最近20年のことである。今日にいたって中国はようやく“排外”姿勢を改めた。以前の中国人は外国人を基本的に信用しなかった。外国人が中国へ来るのは“悪意”や“下心”があるに決まっているから絶対に追い出さねばならないと思い、そして外国人を追い出すことで中国人は“立ち上がる”ことになり、そしてその時にこそ中国人は幸福になれるはずだったのである。1949年以後、中国共産党によってソ連人以外の西洋人は残らず追い出されて、1960年以降はソ連人すら追い出された。文化大革命時期になると中国には中国にはほぼ一人の洋鬼子〔訳注・外国人に対する蔑称〕もいなくなり、全ての外国人を追い出すという老仏爺〔訳注・西太后の尊称〕や義和団などが長年にわたり奮闘してきた目標は達成された。
ところが外国人を追い出して自己を西洋文明の外に置いて隔絶された中国で幸福にならないことを知って中国人は驚くことになる。反対に、もたらされたのは災難である。だから文化大革命の後、中国人は深刻に反省して、もう二度と排外はしないと決心し、今度は180度の大転換を行い、外国人を中国へ招きはじめた。まさに“既に今日を知れば、何ぞ当初を必せん〔訳注・今日のことを知っていればあの時あんなことはしなかったのに。後悔の言葉。『紅楼夢』などに見えるせりふ〕”である。福沢諭吉は100年以上も以前に、中国を「麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら・・・其傳染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するもの」と批判した。それから100年後の今日になって、中国人は自分の体で「一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞する」の苦痛を味わってから、「西洋文明に抵抗したり拒絶したりするのは愚かである」ことをようやく悟ったのだった。
100年前に中国で福沢の文章が真剣に読まれていたら、100年前に対外開放していたら、100年前に自発的に外国人を招き入れていたら、今日の中国はどうなっているだろうか。いま“改革開放”政策は素晴らしいという言葉が中国人はしきりに言う。しかし100年前に“対外開放”を唱えれば漢奸として批判されたのは確実である。中国の目下の奮闘目標は2050年に中レベルの発展国の水準に到達することだ。しかしもし100年前に改革開放を行っていたら、今日の中国はきっと中レベルの発展国以上の水準に達していただろう。
中国人は“仇外”心理からいまだに完全に脱けだしていない。今日でも“外国はすばらしい”という人間は“漢奸”だという罵倒を浴びせられる。
(以下略)
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/Column/2005/c20050411.htm
日本でも『脱亜論』を中韓と手を切る事だと思っている人がいるんだよね。