「靖国信仰」を捨てなさい
8月になると韓日関係で年中行事のようにみられるのが靖国神社問題だ。今年は小泉純一郎首相が15日を選んで参拝する可能性があるという。外交摩擦の火種がゆらゆらと燃えているわけだ。
われわれが靖国参拝を批判する最大の理由はそこに合祀されているA級戦犯のためだ。戦犯を参拝することは、イコール侵略戦争を肯定する行為であり、受け入れることができないという論理だ。しかし冷静に計算すれば、これは靖国の本質を斜に見る危険がある。枝葉末節に興奮したあげく本質に触れることができないというものだ。
まず確認しておくことがある。靖国は戦没者追悼のための所ではないという事実だ。「追悼」というのは、死んだ人を思いながら悲しむという意味だ。ところで靖国は戦死を悲しまない。悲痛に思わない。逆に戦死を賛美する。戦死すれば神になって靖国に仕えられる光栄を享受するという。
「天皇がくださった命を天皇に捧げたから、それ以上の名誉はない」とし、みながそのように信じた。それが「靖国信仰」だ。その洗礼を受けた遺族たちは、胸いっぱいに自負の念を抱いた。兵士らは「靖国で会おう」と死んだ。靖国はそのように日本国民を洗脳して戦意を高揚させた。
これは追悼とは根本的に違う。難しい言葉を使うと「顕彰」だ。功績を高くたたえ、賛美するという意味だ。
靖国に併設された戦争博物館である遊就館に行ってみればこれを実感することができる。帝国主義の栄光と日本軍の功績をほめたたえている。功績というのはほかでもなく、戦争と植民地開拓だ。それで靖国には軍人と軍属の位牌だけ置く。民間人の戦没者は靖国の関心事ではない。侵略戦争に功績を残せなかったからだ。
このような靖国の属性は今も変わりがない。靖国を批判しようとするなら、まさにこの点を浮き彫りにする必要がある。
また靖国は純粋な宗教機関でもない。戦時中は軍が直接管理した。敗戦後も陰で日なたで国家の支援を受けた。例えば日本厚生省は戦犯を含む戦死者名簿を靖国に渡し合祀した。1956年には日本政府が国庫480万円を靖国の合祀作業に支援した。この程度ならば小泉首相の靖国参拝は宗教活動とはみられない。韓国や中国の批判が内政干渉という日本側反応も首相の参拝が国事と同時に高度な政治的行為であるのを自認しているのだ。
それならわれわれも日本の政治的意図を意識しながら靖国問題を見ていかなければならない。A級戦犯の分祀を要求すればいいだけの問題ではない。A級戦犯は靖国のアイデンティティを示す象徴であるだけで、本質ではない。
万一、靖国が韓国と中国の要求通りA級戦犯を分祀するとする。首相が参拝しても問題を提起しにくくなる。われわれ自らが靖国のナショナリズムを赦免する体たらくになる。首相の参拝を定例化した後、天皇の参拝を実現するのが日本右翼の意中だ。この場合「靖国信仰」の挙国的布教活動を阻むことはできない。そのような面から靖国が分祀に応じていないことは、むしろうまくいっていることかもしれない。
このほかにもわれわれが見守らなければならない点がある。靖国が日本の青少年層を発掘しているという点だ。靖国は2000年から青少年のための歴史スタディグループを運営している。デモクラシーと経済成長により緩んでいった皇国臣民意識を引き締めようとする意図だ。99年には英霊の功績を称える研究事業に対する財政支援制度も作った。教科書歪曲(わいきょく)の主犯である「新しい歴史教科書をつくる会」の支援を念頭に置いたという。
本当に不憫なことだ。世界第2の経済大国で、まだアナクロニズム的な皇国臣民意識が再生産されているからである。これは侵略戦争に対する反省が足りないところから始まった結果だ。
このような状況では外国人がいくら言ってみたところで無駄だ。日本人たちの健全な市民意識が「靖国信仰」を考査させるほかない。日本人が自ら方法を見つけ、実践し、国際的評価を受けなければならない。これができなければ日本は過去の桎梏(しっこく)から脱することはできないだろう。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=66176&servcode=100§code=100
「靖国信仰」>そんなものは、もともとありませんが。